説教 


2015年9月27日 「分を越える」       
聖書:民数記 16章1−14節     説教:  
さて、レビの子ケハトの孫でイツハルの子であるコラは、ルベンの孫でエリアブの子であるダタンとアビラム、およびペレトの子であるオンと組み、 集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。
彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」 モーセはこれを聞くと、面を伏せた。
彼はコラとその仲間すべてに言った。「主は明日の朝、主に属する者、聖とされる者を示して、その人を御自身のもとに近づけられる。すなわち、主のお選びになる者を御自身のもとに近づけられる。 次のようにしなさい。コラとその仲間はすべて香炉を用意し、 それに炭火を入れ、香をたいて、明日、主の御前に出なさい。そのとき主のお選びになる者が聖なる者なのだ。レビの子らよ、分を越えているのはあなたたちだ。」
モーセは更に、コラに言った。「レビの子らよ、聞きなさい。 イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた者として御自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか。
主は、あなたとあなたの兄弟であるレビの子らをすべて御自身のそばに近づけられたのだ。その上、あなたたちは祭司職をも要求するのか。そのために、あなたとあなたの仲間はすべて、主に逆らって集結したのか。アロンを何と思って、彼に対して不平を言うのか。」
モーセは人をやって、エリアブの子であるダタンとアビラムを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「我々は行かない。 あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか。我々の上に君臨したいのか。 あなたは我々を乳と蜜の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない。あなたはこの人々の目をえぐり出すつもりなのか。我々は行かない。」
 
   コラはアロンやモーセと従兄弟同士だったようです。それなのに一方はレビ人として幕屋に仕え、一方は祭司としての仕事をする不満。ダタン、アビラム、オンは軍人だったようで、モーセの指揮に不満があったようです。4人は謀り、250人もの人を巻込み、モーセとアロンに「あなた達は分を越えている」と迫りました。人が分を越える時、必ず混乱が起こります。そのツケは本人だけではなく周りのものも巻き込みます。
 
モーセはこの問題の解決を自分ではしません。主に委ねました。
 
人の集まるところには内輪争いが起こります。教会とて同様です。パウロはこう言います。「自分を過大評価してはなりません。むしろ神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(ロマ12:3)と。
過度の自己主張と同様、過度の引っ込み思案も問題です。傲慢と卑屈は裏表です。無欲がいいのではありませんし、上に立つことが悪いのではありません。どこで自分を見るかです。
 
「分をわきまえる」とは、神様の前で自分を見ることです。そうすれば自分を過大評価も過小評価もできません。神様を抜きに自分を見るので、自分を隣人と比べます。
「慎み深く評価する」とは「すこやかに思う」ということです。うぬぼれたり遠慮したりせず、自分もそして隣人も神様の前で受け入れ、その関係がすこやかになることです。


2015年9月20日 「人生の土台は何か」      
聖書:ルカによる福音書 6章46−49節    説教:  
 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
 
それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
  「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」(48)
 
 私たちは神様の愛の支配の中に置かれている。これがイエス様が語りもたらしてくださった福音です。
 
土台のない家は危なくて住めるものではありません。人生にも土台は必要です。 聞きおくだけでは自分のものになりません。聞いたように行うのでなければ、本当に聞いたことにはならないのです。神様の愛の支配の中に置かれていることをいくら聞いても、その愛に身をゆだねなければ人生の土台を据えたことにはなりません。
 聞いて行うことは、聖書では深い意味があります。み言葉に従って一歩を踏み出すとき、神様の御業が起こるのです(ヨハネ4:52,9:7)イエス様のお言葉に従って身を起こすとき、神様の業が始まるのです。
 
信仰をもつことは人生の不幸がなくなることではありません。信仰を持っていてもいなくても人生には大水が襲い、大風は吹きつけます。しかし何が起こってもビクともしません。イエス様によって私たちは神様の愛のご支配の中に置かれていることを知っているからです。


2015年9月13日 「心の中を口が語る」     
聖書:ルカによる福音書 6章39−45節   説教: 
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
 
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」



  私たちは神様の愛の支配の中にあります。これがイエス様がもたらしてくださった福音です。お金に安心を置いている人にはわかりません(20−26節)。神様の愛を知った人は愛と赦しに生きます。隣人を愛し、赦すことで神様の愛を自分のものとしてゆきます。更に神様の愛を知った人はそれを伝えます。伝えることで更に深く自分のものとすることが出来るからです。その際何に気をつけたらよいのでしょうか。
 
福音の中身をしっかりわきまえているでしょうか。盲人(理解していない人)は盲人(理解していない人)を手引きできないのです(39−40)。
 
私たちはあの人は分かっていないと簡単に人を切り捨てます。他人の落ち度はどんない小さくてもすぐに気づき、自分の落ち度はそれがどんなに大きくても見えないものなのです(41‐42)。
 
伝える時最も大切なのは、どう伝えるかではなく、私がどう生きているかです。心からあふれ出ることを、口が語るからです(43−44)。
 
心にあることが口からあふれ出ます。人は初めから自分があるのではなく、周りの人の助けと配慮の中で自分を確立してゆきます。私たちはイエス様を知らされた者なので、悪口に悪口を返さず、配慮に満ちた言葉で周りのものを気遣う、そのことで周りのものを生かしイエス様の愛を更に自分のものとしていくのです。
 

2015年9月6日 「あなたの敵を愛しなさい」  
聖書:ルカによる福音書 6章27−38節   説教:
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
  「あなたは敵を愛し、人によくしてやれ。そうすればあなたはいと高き者の子となるであろう。」
 
ここには難しい言葉ありません。理屈ではここに人が一緒に生きる道があるとわかっています。
しかしこれを実行するとなると戸惑います。その人を愛せないから敵と言うわけで、その敵を愛することは土台不可能なことと思います。
 
しかし神様は、私たちが神様の敵であったときに愛してくださったことを知っています。その神様への愛を頭で知るだけでなく、隣人を愛することで応えます。隣人を愛してみて愛のむつかしさを知り、神様の愛の大きさに目が開かれ、そこから更に隣人への愛に押し出されます。
憎まれたら憎しみ返す。これは人の自然の情で、一時は溜飲を下げるように思いますが、憎しみは倍になって返ってきます。
赦すのは、相手をゆるすのですが、相手のために赦すのではありません。自分が、うらみに囚われて生きるのではなく、私が憎しみの連鎖とうらみから解放されて生きるためなのです。
 
M・ルーサー・キング牧師は言いました。「憎しみに対して憎しみで報いることは益々憎しみを増すことであり、星のない夜になお暗黒を加えることだ。ただ星だけが暗黒を除きうる。
憎しみは、憎む人、憎まれる人の魂に傷跡を残し、人格をゆがめ、切り裂き、醜い結果を残す。愛だけが驚くべき仕方で人と人とを結合させる。愛せよ。そうでなければ人は死ぬ」と。