説教 


2015年10月25日 「沈黙の服従」     
聖書:民数記 20章1−13節    説教: 
イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュに滞在した。ミリアムはそこで死に、その地に埋葬された。
さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。 民はモーセに抗弁して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。 なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。 なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」
モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。 「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」 モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。
主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」
これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。
 
  飲み水のないイスラエルの民のために、モーセは杖で岩を打ちました。岩に命ぜよと言われていたのに以前 (出エジプト記17章) にしたのと同じように岩を打ち、不信仰の民を叱り、神様の聖なることを示さなかった。そんな理由でモーセは約束の地に入れなくなりました。神様の御業への慣れのためと言えるかもしれませんが、それはささいなことです。それによってモーセの偉大な指導への報いが帳消しにされてしまうということはあまりにひどい仕打ちです。
 
その辛さにモーセは一度だけ神様に「私にも約束の地に渡って行かせて下さい」と訴えます(申命記3:23-28)。しかし、神様はそれを許さず、モーセは忠実にそれを守り、二度と言い訳も繰り言も言いません。また、このことについて神様は一言の説明もありません。
 
ある時から私たちは世をあげて不測の事態を受容が出来なくなりました。自分に都合の悪いこと、不利なことには声高にその不当性を主張します。人権が守られるためにはそれも必要でしょうが、社会と同じ手法に立っていては信仰は分かりません。
 モーセには「イスラエルに再びモーセのような預言者は現れなかった」と最大の賛辞が贈られていますが(申命記34:10)、一見理不尽と思われる神様のなさり様に服従すると腹をくくる時(マリヤも同じです)、本当の神様の姿が見えてきます。おごりも不満も吸い取られて、神様が神様となります。そこに神様の一筋の光が差し込み、生きる背骨が入ります。それが信仰です。


2015年10月18日 「救いの中にある愛」      
聖書:ルカによる福音書 7章36−50節    説教: 
 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
  ファリサイ派のシモンは、律法を守り、国の行く末を案じ、厳しく自分を律し、自分の努力と誠実で生きてきた人でした。安息日の午後には高名ラビを招いて教えを聞くことさえしました。その席に町で評判の罪ある女が来て、イエス様の足に涙を流し、髪でふき、香油を塗ったのでした。ファリサイ派のシモンは、苦々しい思いで見ていたに違いありません。
 
彼にイエス様は言われました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 そして、女にも言われました。「あなたの罪は赦された」と。
 
だれにでも心の闇があります。口が裂けても言えない、それを知られたら死んだ方がましだという心の闇です。シモンは自分が間違ったことをしていないと思うので、この心の闇に気づかないのです。しかし、人は心の闇で本当の自分に出会います。人の誠実さはここに現れます。
さらに、この心の闇でイエス様にお会いするのです。自分の罪を知るだけでなくイエス様からの赦しを聞くのです。女はここでイエス様に会い、赦しを聞き、自分を委ねたのでした。自分の負の部分を見据える(これは太宰治の世界です)だけでなく、赦しと愛を聞き、突き抜けた喜びに生きるのです。


2015年10月11日 「希望に生きる」     
聖書:ルカによる福音書 24章28−35節    説教: 関義朗神学生
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

  すべての希望を無くして故郷へ向かった二人の弟子はまるで死んでしまったかのようでした。きっと残りの人生を悔やんで無為に過ごしたに違いありません。
しかしこの二人は復活のイエスに再開し、聖書の教えを学び直し、イエスが裂いてくださったパンを受け取った時、前よりも確固とした希望を持つことができたのです。二人の心に火がつき、希望が湧きました。急いでエルサレムに引き返し、そのことを仲間の人達に伝えたのです。
 
この希望は2000年経った今も訪れるのです。ただし、いろいろな情報に惑わされて、そのことを感じにくくなっています。
心静かに祈る時、救いは既に訪れていることに気がつくでしょう。私たちは神様を身近に感じるとき、初めて自分だけのオンリーワンの人生を送ることが出来ます。
 
どうか心静かに祈ってみてください。きっと救いが来ていることを感じることが出来るでしょう。人間的にはどんな希望もないと感じることがあっても、神様は必ずあなたを救い出してくださいます。そのことを信じて日々を歩んでいきたいと思います。
 

2015年10月4日 「主権に服す」  
聖書:ルカによる福音書 7章1−10節   説教:
イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
  「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 わたしも権威の下に置かれている者ですが、…わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きます」
 
  この言葉を聞くとイエス様は「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と百人隊長の信仰をおほめになりました。百人隊長は謙遜で、優しく、ユダヤ人のために会堂を建ててくれる人でした。それらが彼の信仰ではありません。
 
百人隊長は言葉の力を体験的に知っていました。彼の言葉にはローマの権威があり、部下はその権威に従うのです。彼はそれと同じことをイエス様に見ていました。イエス様の言葉の背後に神様の権威を見ていたのです。その権威に服し、それでお言葉をくださいと言い、自分の問題も荷も委ねたのです。
 
「困っている人はこういう風にその問題を解決してもらいたいと言う願いをもっており、それ以外の解決を断固拒否する」(キルケゴール)。病気でも不幸でもそうです。不幸が重ければ重いほどなおそうです。しかし、そんな願いどおりにはゆきませんし、又その願いはいつも正しいのではありません。
神の国(神の愛の支配)はあなたがたを覆っていると言われたイエス様のお言葉にこの身を委ねるのです。私に神様を従わせようとするのでなく、私が神様の主権に服するのです。私の中に神様を取り込むのではなく、神様の中に私を委ねるのです。