説教 


2015年11月29日 「マリアの信仰―お言葉通りこの身に」     
聖書:ルカによる福音書 1章26−38節     説教: 
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
 
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」
 
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
  クリスマスの記事は、マルコによる福音書にはなく、マタイによる福音書(ヨセフを中心に、イスラエルの歴史を背景にダビデの家系に生まれた、旧約聖書の成就者)、ルカによる福音書(マリアを中心に、全人類の救い主としての誕生をバプテスマのヨハネの誕生と交互に記述)、ヨハネによる福音書(神の言が肉となって私たちの内に宿った)にそれぞれ記されています。
 
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」戸惑うマリアに天使は言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」 マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と問うと天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 神にできないことは何一つない。」 最後にマリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 
ある人は、この天使の言葉は「神にできないことは何一つない」と言ってずかずかとマリアの内に入って来るのでなく、マリアがこの言葉お受け入れてくれたらマリアによって人が神様と共に生きる道が開かれのだが、と頼んでいる言葉だと言います。マリアは身を低くして「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と服従して神さまの業が遂行されました。
 
神さまを信じ、お従いすることは私にとって幸いです。さらに幸いなのは、神様にとって私が幸いとなるためにお従いすることです。
 

2015年11月22日 「仰ぎ見て生きる」     
聖書:民数記 21章4−9節     説教: 
 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
 
主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
 
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。
 
主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
  約束の地に向かうイスラエルの民はホル山まで来て、エドムの民(先祖ヤコブの双子の兄の子孫)の土地を通らせてもらおうと丁寧な挨拶をしますが、武力で阻止されました。そのためもう一度南下して大きく迂回しなければならなくなり、民は神様とモーセにつぶやきました。
辛いことも問題ですが、それがいつ終わるか分からないことが辛さを増し加えます。民は苦しさの中で、そもそもの原因は自分たちをエジプトから導き出したことといつものようにつぶやきます。そこまで導かれ、そこにもある神様の恵みは見ません。感謝は感謝を呼び込みますが、不満はもっと大きな不幸を招き寄せるのです。
 
毒蛇がどこからともなく現れ、それに噛まれて多くの民が死にました。この事件はよほど恐ろしい経験だったのでしょう、このことは新約の時代まで語り継がれました(Tコリント10:9)。
神様は助けを求める民に、モーセによって毒蛇を青銅で作らせて棹の先に架けさせ、それを仰ぎ見た人が生きられ道をあたえられました。
 
青銅で作った蛇を見たら何故生きられるのか、医学的には分かりませんが、信仰的にはよく分かります。罪は罪(の苦しみ)をもって償われます。人の罪の結果である十字架が罪の赦しの源でもあるのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:15)。
自分の罪をしっかり見るだけではありません、同時に罪の赦しも凝視する。それが救いなのです。

2015年11月15日 「あなたは何を見るか」      
聖書:ルカによる福音書 7章18−35節    説教:  
ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
 
ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
 
「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』
洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

 
  「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。
広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』」
 
ヨハネの使いに答えた後、イエス様はヨハネについて最大の評価をし、ヨハネやイエス様を迎えようとしない人々に対して語られました。イエス様の時代に子供の遊びに結婚式ごっこやお葬式ごっこがあったようです。喜びの笛を吹いたら踊り、悲しみの歌を歌ったら泣く真似をするのです。ところが無視して思い通りに動いてくれない時があります。笛吹けど踊らず、です。
ヨハネとイエス様を迎えた当時がそうですし、現在もそうです。
 
バプテスマのヨハネは救い主を迎える準備をせよと叫び、イエス様によって神の愛の支配が始まりました。この歴史も人生もすっかり意味を変える神様の愛の支配が私たちの中に突入したのです。ところがそれに応えようとしません。それに応えればその恵みや正しさが分かるのですが。
 
それが分かっていますか。私たちはただ生きてここで生活するのではありません。生きるということは、聞くべきものを聞き、見るべきもの見ることです。
神様の愛と赦しの支配が始まっていることに気づいてそこで生きていますか、それを見て生きよ。それにふさわしい迎え方をしていますか。

 

2015年11月8日 「来たるべき方はあなたですか」     
聖書:ルカによる福音書 7章18−23節    説教: 
 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」

  領主ヘロデの不正を暴いてマケラスの獄に入れられていたヨハネは、イエス様のもとに使いを送りました。獄中のヨハネは弟子たちから細かく報告を受けており、イエス様によって盲人の目が開かれたり、死人が生き返えらされたことは知っていました。彼はそれでは納得できません。開眼の喜びは本人にとってはひとしおでしょうがそれは一時の喜びです。死人が生き返ってもやがて彼も死にます。人の世の苦しみや悲しみは無くなりませんし、社会に根本的な変化はありません。それで「来たるべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」と問わせたのです。
 この問いは私たちの問いでもあります。悪と、暴力による自己主張と、報復の連鎖。こんな社会に教会の語るイエス様の救いは通用するのでしょうか。
 
イエス様はあえて「あなたの見聞きしたことをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足の不自由な人は歩き…」、その事実を報告しなさいと言われます。
 これは旧約聖書イザヤ書35章のメシヤ予言の一部です。元高知教会の吉田満穂牧師はこれを「大いなる時の始まり」と言われました。イエス様の業は表面的で、一時のように見えるけれどもそれは大いなるメシヤの到来の始まりの足音なのだと。
 神様の愛の支配は始まりました。神様は私たちを見捨てたまわないのです。メシヤを送り、御業を確実に行われているのです。足元から。一見無力と見えても、イエス様によって現わされた神様の愛と赦し、それに応えるわたしたちの愛と赦し、そこに立ち続ける以外に救いはないのです。

2015年11月1日 「つなぎ合わせるキリスト」  
聖書:ルカによる福音書 7章11−17節   説教:
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

  この婦人は気の毒な人でした。なぜ寡婦になったのかはわかりません。しかしやっとその苦労が報われる時になって、杖とも柱とも頼る一人息子が死に奪い取られたのです。支えと望みと慰めを失い、町の人々も励ましの言葉を持たず、寄り添うだけしかできませんでした。
 
イエス様は「はらわたが揺すられるような深い悲しみ」を覚え、この女の前に立ちました。当時流行のギリシャの神は偉大な神で人間に支配されません。(そんな神に祈っても無駄なので人々は祈らなくなりました。真の神を知らない現代を象徴しています)わたしたちの信じるイエス様は無感動で、平常心をもって私たちの前に立たれる方ではなく、死の現実に心がゆさぶられ、じっとしてはおられず、歩み寄ってくださる方なのです。
 
わたしたちは時計をもっています。その時計は死で止まります。例外はありません。イエス様は息子を生き返らせて元の生活に戻したのではありません。どんなことをしても時計の針はもとに戻せないのです。元に戻すのではなく、先に進めたのです。
 
死が終わりではなく、死の先を与え、息子を母にかえしたのです。わたしたちに死の先の望みを見せてくださったのです。ご自身の甦りによっても、です。