説教 


2015年12月27日 「老人がみた救い」      
聖書:ルカによる福音書 2章21−39節    説教: 
 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
 
シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
   「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のためにととのえて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです。」
 
ルカにはクリスマスにちなむ三つの詩が記されています。ザカリヤの詩(1:68-79)は朝の祈り、マリヤの詩(1:47-55)は夕べの祈り、上記のシメオンの詩(2:29-32)は夜の祈りといわれています。このシメオンの祈りを唱えながら一日を閉じ、一年を閉じ、人生を閉じられたらどんなに幸いなことでしょう。
 
一体私たちの人生は完結するのでしょうか。「どんな人も思いを残して死ぬものだが、神の存在を信じる者だけが完結しない行為の意義を評価しうる」(曽野綾子)と言っています。長く生きることは苦しみのひだを加え、悲しい経験を重ねることです。シメオンはその最後に、その目で「倒したり(間違った生活の上に救いはなくそれを正し)、立ち上がらせたりする(赦しと愛の中で生かす)キリストの救いを見たのです。
 
キリストを見るとは、幼子を抱くことです。東方の博士たちはイエス様をひれ伏して拝みました。ひれ伏して拝むことも大切です。同時にキリストをしっかり抱くことも大切です。
キリストを抱くと、不思議なことに、わたしがイエス様から抱かれていることに気付かされます。シメオンの詩はイエス様を抱いた物の詩ですが、イエス様に抱かれた者の平安と喜びの歌でもあるのです。
 

2015年12月20日 「飼い葉桶のしるし」      
聖書:ルカによる福音書 2章1−20節   説教: 
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
  「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである、あなたがたは、布にくるまって飼葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 
クリスマスの喜びは、幼子の誕生の喜びですが、生まれた幼児に向かっておめでとうと言う喜びではなく、飼葉おけに寝かされた幼子の誕生によって私たちに救いがもたらされことを喜び、互いに「メリー・クリスマス(クリスマスおめでとう)」と挨拶し合うのです。
 
リュウマチの痛さは患ってみないとわからないと言います。「心に傷を持たない人は人の痛みにも鈍感である」(永井 隆)と言われます。うまぶねに生まれたイエス様だからこそ私たちの痛みと悲しみをわかってくださるのです。
 
私たちは皆、それぞれ苦悩を背負って生きています。その際自分の運命を呪っても、相手を恨んでも道は拓きません。その荷を担って踏ん張って生きる以外ないのです。
しかし、人は一人ではありません。目を上げて御覧なさい。私の闘いを知ってくれる人が周りにはいます。神様はそういう隣人を与えてくださっています。また、なんと神様自らが飼葉おけに幼子をお送りくださって隣人となってくださったのです。それがクリスマスの喜びです。

 

2015年12月13日 「ほめたたえよ、憐みの神を」     
聖書:ルカによる福音書 1章57−80節    説教: 
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。  
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
 
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
   ザカリヤはヨハネの誕生を予告されると、戸惑います。それでも逃げることの出来ない神様の業にふれ、語れず、沈黙することで神様の業を熟考したのでした。
沈黙の中で神様への讃美が蓄えられ、ヨハネの誕生と共にほとばしり出たのがザカリヤの賛歌「ベネディクトス」です。語ることをやめ、自己主張をやめ、まくしたてないで黙して聞く。
そこに光がさし、新しい歩みが始まります。
 
ザカリヤの賛歌の中心は「憐れみ」です。ヨハネという名は「神は憐れみ深い」という意味ですし、ザカリヤの賛歌には3度も「憐れみ」の言葉が入っています。
聖書の憐れみは、力ある者が弱い人に憐憫の情をかけることではありません。元々は内臓がねじれるという言い方で、日本語の心が痛む、胸が締め付けられると言った表現と同じです。放蕩に身を持ち崩して尾羽打ち枯らした息子を遠くから認めて、いても立ってもいられず「憐れに思い、走りよって首を抱き」の憐れみです。放蕩息子の兄は違います。彼の惨めさは自業自得で、それを赦して迎える父は間違っている、そう考えて弟を断罪します。父は違います。自業自得はわかっているのです。でも弟の今の状況に胸がしめつけられ、先ずありのまま受け入れるのです。
 
ザカリヤはこの神様の憐れみがわかりました。目を留めてくださった神様を知らされ、ヨハネが先触れをするイエス様によって明らかになった神様の憐れみを感謝し、ほめたたえたのです。
いつまでも争いを止めず、迷い、失敗し、病む私たち。私たちは「キリエ(主よ憐れんでください)」と訴えられるのです。



2015年12月6日 「神が目を留めてくださる」  
聖書:ルカによる福音書 1章39−56節   説教:
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 
そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
  マリヤは、天使から男の子の誕生を予告されると、ヨハネを身ごもった叔母のエリサベトを訪ねました。そこで歌ったのが「マリヤの賛歌」、マグニフィカートです。
 
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」
 
「あがめる」とはラテン語でマグニフィカートと言いますが「メガノール」(大きくすること)という言葉から来ています。あがめるとは、自分が小さくなって神様が自分のうちで大きくなることです。
 
「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」 
 
現代は身分に高低はありませんので分かりにくい表現ですが、口語訳の「この卑しい女をさえ心にかけてくださいました」の方が分りやすいかも知れません。卑しい者といった方が謙遜で奥ゆかしいと言うのでもありません。神様の前で誇ることも、とり得もなく、罪にまみれた卑しい者です。自分を心底そう自覚しているかどうか、これが信仰の勘所です。
 
さらに、そんな自分を神様が目に留めてくださった。誰にも知られない自分の醜さや小ささを知るだけでなく、そんな自分に神様が目を留めて覚えてくださっている。これが救いです。主をあがめるのはそのためです。
 
これを知ると世界が一変して見えます。日頃、身分・力・富に目を奪われていますが、神様の救いの前には(死の前でも同じですが)何の力もないのです。
四面楚歌で苦しい宗教改革の戦いをしたルターは、この歌で勇気を与えられ、聖書をドイツ語に訳し、説教して勇気を与えられたと言います。