説教 


2016年1月31日 「祝福された者」     
聖書:民数記 24章10−25節     説教: 
 バラクはバラムに対して激しく怒り、手を打ち鳴らしながら、バラムに言った。「敵に呪いをかけるために招いたのに、見よ、お前は三度も祝福した。 自分の所に逃げ帰るがよい。お前を大いに優遇するつもりでいたが、主がそれを差し止められたのだ。」
バラムはバラクに言った。「あなたがわたしのもとに遣わした使者に対しても、わたしはこう言ったではありませんか。 『たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、主の言葉に逆らっては、善にしろ悪にしろ、わたしの心のままにすることはできません。わたしは、主が告げられることを告げるだけです』と。
わたしは今、わたしの民のもとに帰ります。後の日にこの民があなたの民に対して何をするか、あなたに警告しておきます。」
そして彼はこの託宣を述べた。
ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。
神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。
わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がりモアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。 エドムはその継ぐべき地となり敵対するセイルは継ぐべき地となりイスラエルは力を示す。ヤコブから支配する者が出て、残ったものを町から絶やす。
彼はアマレクを見渡して、この託宣を述べた。アマレクは諸国の民の頭、しかし、その末はとこしえの滅びに至る。
彼はカイン人を見渡して、この託宣を述べた。お前の住む所は確かであり、お前は巣(ケン)を岩の上に置く。しかし、アシュルがお前をとりこにするとき、カインは必ず、焼き滅ぼされる。
彼はまたこの託宣を述べた。災いだ、北から軍団を組んで来る者よ 。キティムから寄せ来る者よ。彼らはアシュルを苦しめ、エベルを苦しめるが、彼もまた、とこしえの滅びに至る。
 
バラムは立ち上がり、自分の所に帰って行った。バラクも自分の道を去って行った。
  イスラエルの旅も終わりに近づきました。シナイの荒野を進む時はさえぎる者はありませんでしたが、約束の国に近づくほど、そこの住民との間に軋轢が生じました。イスラエルの民は戦って進みますが、それは周辺や進行方向にある民にとっては脅威でした。
 
この事態にモアブの王バラクは魔術師バラムを雇って、イスラエルに呪いをかける策に出ました。しかし雇われたバラムはイスラエルを呪うどころか、かえって祝福してしまいます。王バラクはバラムをなじり、なんとかイスラエルを呪わせようとしますが、バラムは神が祝福したものを呪うことはできないと答え、決定的にこう祝福しました。
「わたしには彼が見える。しかし、今ではない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏がイスラエルから立ち上がる」(24:17) これは有名なメシヤ(キリスト)の預言です。
 
イスラエルの知らないところでイスラエルは祝福されていたのです。約束の地に向かって旅するイスラエルの民の姿は、私たちの象徴です。
人は生きているかぎり課題を抱えています。病気、痛み、挫折、課題や問題のない人はいません。問題があるから祝福がないのではないのです。祝福の中で自分の問題を担うのが信仰者です。
 
イエス様の故に、私たちへの神様の祝福と愛ははっきりしています。「神はわたしたちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずかるようにと定められたのです」(Tテサロニケ5:9) この祝福の中で、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」(5:16‐18)毎日へ押し出されるのです。


2016年1月24日 「イエス様と同舟」     
聖書:ルカによる福音書 8章22−25節    説教: 
 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。
渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。
  この話は、マタイにもマルコによる福音書に記されており、初代教会では慰みに満ちた話として、愛されていました。今でも舟を会堂に飾り、舟の形をした教会もあるそうです。
 
15人も乗ればいっぱいになる手漕ぎの小さな舟。舟ですから沈まないということはありませんし、絶対に安全ということはありません。湖である以上穏やかな日もあるでしょうが、嵐も襲うのです。
これが私たちの姿です。しかしその舟にはイエスも乗っていてくださっています。
イエス様は日頃のお疲れが出たのか舟の中で眠っておられ、嵐が襲っても眠っておられました。嵐におびえる弟子たちに起こされると風と荒波を鎮められ、弟子たちに「あなたたちの信仰はどこにあるのか」と言われます。
 
イエス様はこの世界を造り、支配しておられる神様に身を委ねておられたのです。嵐の現実を無視せよというのではありません。嵐を前に平常心でいられることが信仰ではありません。嵐の現実の背後に神様の支配を見ておられるのです。
イエス様は風も波も叱られる方ですが、その嵐の中で眠れるお方なのです。嵐の中でも神様の支配を見てとり、そこで安らかに休めるお方です。
 
信仰とは現実から神様を見ることではなく、神様のご支配から現実を見ることです。しかも私たちの舟にイエス様が乗っていてくださることに目が開かれることです。



2016年1月17日 「神による家族」     
聖書:ルカによる福音書 8章19−21節   説教:  
 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
  この話は、マタイにもマルコにも記されていますが、ルカは独立した話としてではなく、種まきのたとえの後に記し、神の言葉を聞くことの締めくくりとして記します。
 
「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と取り次がれるとイエス様は言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。
 
イエス様はルカ14:25−33でこうお語りになりました。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。… また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。…だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
これはぎくりとするお言葉ですが、人生の確かさは、自分の肉親、財産にあるのではなく、自分の中にあるのでもなく、神様の愛の支配に身を置くことだと言われます。神の言葉を聞いて神の愛の支配に生きる、そしてその愛に生きる者が兄弟姉妹、神の家族なのです。
 
では肉親の関係はどうなるか。イエス様は肉親の関係を否定したのではありません。肉親だから持つ情のこまやかさ、いとおしさがあります。それは他に得難いものです。しかし肉親のゆえの厚かましさ、醜さもあるのです。だれも肉親を選べません。だからこそ、その関係は清められ、信仰によってとらえ直さなければならいのです。肉親の背後に神様の御手を見て、神様によって与えられ託された肉親、かけがえのない肉親としてかかわっていくのです。

2016年1月10日 「み言葉をどう聞くか」     
聖書:ルカによる福音書 8章16−18節    説教: 
「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
 
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
 
だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
 
  御言葉すなわち「イエス様によって神様の愛の支配がはじまったこと」が語られる(蒔かれる)と、それぞれの受け止め方があります。受け止め方、受け止める心の問題です。そのことを更に三つのたとえ、ことわざで教えられました。
@「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
これは当然です。火は照らすためのものであって、「私」するものではありません。
 私の喜びか私にとどまらず、周りの人の喜びになっているでしょうか。

A 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」
 隠そうとしても吹き出てくるような喜びとしての福音を聞いていますか。
 
B 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
 知識でも技術でも信仰でも、それを生かして用いなければ、持っているものまで失い、用いれば用いるほど、持っているものは豊かにされてゆきます。
 
 私たちは「神様の愛の支配」をどう聞き、どう生かして用いているのでしょうか。

2016年1月3日 「実を結ぶ聞き方」  
聖書:ルカによる福音書 8章1−15節   説教:
すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
 
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
 
弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
 
 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
  御言葉すなわち「イエス様によって神様の愛の支配がはじまったこと」が語られる(蒔かれる)と、それぞれの受け止め方があります。
 
[道ばた]は踏み固められた心で、はじめから根付きません。自分の価値観や人生観でガードを固め、み言葉を受け付けない人です。
[石地]とは、の上に薄く土が覆っているために発芽はしますが、すぐ枯れます。熱しやすく冷めやすい、いわゆる三日坊主の人です。この人は苦労して事を自分のものにする、突き抜けた喜びを知らない人です。  
[茨の間]石は気の多い人です。み言葉も受け止めますが、ほかのことも同様に受け止めます。なくてならぬものがただ一つであることを知らないのです。
[良い地]は100倍の実を結びます。例えば一粒のエンドウ豆が蒔かれると、百倍どころでない実をつけます。自分を豊かにし、周りを潤すのです。それは前の三つの畑の在り様をせず、「正しい良い心でしっかり守り、耐え忍んで実を結ぶ」人です。
 
ここには四種類の受け止め方が語られているのではなく、二種類です。み言葉を受け止めるか受け止めないかです。御言葉すなわち「イエス様によって神様の愛の支配がはじまったこと」が語られると、それを信じ信頼して身を委ね続けるか、そうでないかなのです。
イエス様はここで、あなたがたはどういう畑なのかと糾弾しているのではありません。なんとか実を結ぶ畑となって、その人生で百倍の実を結ぶ恵みに恵みを加えられ生き方をしてほしいと招いておられるのです。