説教 


2016年2月28日 「望を天につなぐ」     
聖書:申命記 3章23−29節    説教: 
わたしは、そのとき主に祈り求めた。
「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。 どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
 
しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。 ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。 ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」
 
我々はこうして、ベト・ペオルの前にある谷に滞在していた。



 
  申命記は、約束の地に入るイスラエルの民に律法を再確認している書物で、1〜4章はそこにつくまでの旅の回顧、5章〜28章は再交付される律法、29章〜34章は後継者ヨシュアの任命という内容です。
 
旅の回顧の中で、モーセは約束の地に自分が入れないという神様の言葉を聞いたことを語ります。モーセは苦労して民をそこまで導いたので、ぜひその土地に入りたいと神様に訴えますが、神様は「もうよい、このことを二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。…ヨシュアを任務につけ、…彼はこの民の先頭に立って、…彼らに土地を受け継がせるであろう」と言われます。
「もうよい」を口語訳では「お前はもはや足りている」と訳しています。これはパウロの「わたしの恵みはあなたに十分である」(Uコリント12:9)と同じ内容と考えたらよいと思います。モーセは顔を合わせて神と語り、人がその友と語るように神と語れました(出エジプト33:11)。それは小さな事でしょうか。
約束の地には入ることだけを願って、もっとよい神様との親しい交わりにあることに気づけと言われるのです。約束の地に入れる事はモーセの仕事の完成であるに違いありません。しかしそれはヨシュアがするのです。人は神様の道具で、神様の道具に徹してその交わりに生きることが他の人には分からない喜びなのです。
人生は、私が私の思いを完結するのでなではありません。思いを残すのです。完結させてくださるのは神様で、私の思いの実現ではなく神様のみ心が成ることです。そこに焦点を当てると私の人生も光ってくるのです(申命記34章)
 

2016年2月21日 「恐れるな、信ぜよ」     
聖書:ルカによる福音書 8章40−56節     説教:  
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
 
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
  12歳の一人娘が死にかかり、父親で会堂長のヤイロはイエス様がカファルナウムに帰られたと知ると、転がるようにイエス様のもとに来て、すぐに自宅に来て娘のために祈ってほしいと懇願しました。その願いを入れてイエス様はヤイロの家に向かいました。
 イエス様の一行はその途中12年間出血の止まらない女に時間を取られました。ヤイロは思ったに違いありません、あなたは12年患ったのは分かるがもうちょっと待ってくれ、こちらは一刻を争う事態なのだ。その時ヤイロは「御嬢さんは無くなられました」と言う言葉を聞いたのでした。死は私たちからすべてを奪い尽くします。人生の喜びも、一家の団欒も。しかも私たちは死の前に無力なのです。もうおしまいです。
そんな彼にイエス様は言いわれました。「恐れるな。信じなさい。」
 
家に着くと「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」「娘よ、起きなさい」と言われ、イエス様は娘と親をつなぎあわせてくださいました。この娘はいつまでも生き続けたのではなく、やがては死にます。ここでイエス様は、やがての身体の甦りの先取りを皆に明らかにして下さいました。
 
「国籍は天にあり」と言い、「身体の甦りを信ず」と告白する時、私たちはイエス様の甦りによって
わたしの甦り、両親、家族、友人とのやがての再会を本気で信じているのです。これらは葬儀での常とう語ではありません。死は、永久の別れでは決してないのです。
    
 

2016年2月14日 「癒しから救いへ」     
聖書:ルカによる福音書 8章40−48節    説教: 
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 
  十二年も出血が止まらない女が、群衆にまぎれこんでイエス様の衣にさわりました。衣にでもさわれば癒されると思ってのことです。
 苦しい時祈れることは幸いです。人は幸福な時も祈りませんが、辛い時でも祈りません。祈れたら問題の解決の入り口に立っているのです。「悩みの日に我を呼べ、さらば我、汝を助けん」(詩55:15)と約束されています。そして事実癒されました。一体奇跡のない信仰はあるのでしょうか。信仰は信念でも世界観でもありません。生ける神様との関係です。イエス様は人生の非常口です。
 
 実は聖書の信仰はここから始まります。病気が治って一切の問題が解決したのではありません。この女は病気が治って社会に復帰し、結婚だってするかもしれません。病気の時は早く治って生きたいと思うでしょう。しかし健康になったら一層のこと死んでしまいたいと思う問題にも出会うのです。
 
 目先の恵みをいただいて、それでこと足れりとする信仰はもろくて弱いものです。倦怠と慣れはいつも私たちについて回ります。恵みは時と共に色あせ、感謝は感謝でなくなるからです。                                                           
私たちは、周りの人と愛し愛され、配慮し配慮される関係の中で生きています。信仰とは、神様とこの関係に入ることです。この関係を結ぶためにイエス様は女を捜されたのでした。
女はイエス様の前にありのままを語って自分を投げ出し、イエス様も女を丸ごと引き受け「安心して行きなさい」と語られます。目先のあの事この問題の解決と共に、その後の生涯も神様の愛と配慮の中で生きるのです。      

2016年2月7日 「私を揺さぶる方」  
聖書:ルカによる福音書 8章26−39節   説教:
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
 
ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
  「これは荒唐無稽の言葉であろうか…ここに出てくる出来事は異常な出来事であるけれど…私たちの隠れた悲しみを鋭くえぐり出したもので、私自身の物語である」(吉田満穂)
 
 当時は、人のあらゆる災いは悪霊の業と考えられていました。悪霊には階級があります。人にちょっかいを出すのは下端の悪霊、汚れた霊です。現在は医学の発達によって、この悪霊とは無縁になりました。しかし親分(サタン)がいるのです。人の恨みや自分中心を手掛かりに、なんとしても神様の業を阻止しようと人に猛攻を仕掛けます。かつてのドイツや日本、現在のISの蛮行も、小さな私たちの魔の時の支配としか思えない行為もこのサタンの仕業なのです(参エフェソ書2章)
 
 悪霊につかれた人は、裸で、家にも住まず墓場にいて、縛っている鎖と足枷を断ち切ります。彼は人との交わりがなく、人の思惑は気にせず、孤独の中におり、教育やしつけの鎖でもつなぎとめられず、人を傷つけ自分を傷つけます。この不気味な男は、深い意味で私たちの象徴です。
 
こんな私たちにイエス様は近づいて来られました。私たちはイエス様から揺さぶられたいと思います。自分が自分がと言って自分しか視野に入っていない孤独でわがままな自分、自分の都合だけにとらわれてかたくなに他人をはねつける自分、そういう自我のねぐらから飛び出してイエス様をお迎えしたいと思うのです。
救いとはイエス様から傷つけられることです。自分に都合のいいことだけを聞いて都合の悪いことには耳をふさぐのでなく自分が砕かれることです。私たちは苦しいことをイエス様に委ねます。不遜で凝り固まった自我も委ねるのです。
 
町の人は、豚を飼っているのですからユダヤ人ではなく神様による希望や祝福と無縁の人です。一人の人の回復より豚の損失を計算し、イエス様に町から出てほしいと頼む世界です。イエス様は彼に、「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と遣わします。