説教 


2016年3月27日 「一緒に歩まれる主」     
聖書:ルカによる福音書 24章13−27節    説教:  
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  エルサレムから11キロほど離れたエマオに向かって二人の人がとぼとぼと歩いていました。その二人に甦られたイエス様が近づき、何を話しているのかと語りかけられました。
彼らは言いました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
イエス様は言われました。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
 
生前イエス様は3度も十字架の死と甦りについては弟子たちに語られましたが、弟子たちにはそれがとどいていませんでした。イエス様に希望を托していただけに失望も大きく、目の前であえなくなくなった十字架の死、甦りなどあり得ないという思いだけが心を占め、十字架の意味も甦りの事実にも目が閉じられていたのです。しかし神が人を救うという決意は、人の予想を越えて十字架の死と甦りによって貫徹されたのです。
 
説教とは何でしょうか。分けてもイ−スターの説教とは、イエス様が私たちの罪の赦しのために十字架にかかってお亡くなりになり、甦られ、そして今も私たちと一緒に歩んでくださっていることを確認することです。 

2016年3月20日 「なぜ十字架が救いなのか」     
聖書:ルカによる福音書 9章18−27節     説教:  
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 
  イエス様は「あなたがたは私を何者だというか」と問われ、ペトロが代表して「神からのメシヤです」と答えます。その告白を受けた後、イエス様はどのような意味でキリスト[救い主]なのかを語られました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」と。この順番が大切です。信仰をもつことはイエス様を救い主と信じることです。しかし何もかもわかった上でイエス様を信じるのではなく、信じた後その中身が次第に明らかにされてゆきます。それが信仰生活です。
苦しんでいる者で救いを求めない人はいません、その際一体どんな救いを考えているのでしょうか。だれか力ある者が来て、あるいは何かの力で一瞬に問題が解決することでしょうか。しかしそんな救いはあるのでしょうか。それは物語の世界であって現実は厳しいのです。信仰は私たちの怠慢を助長し、欲望に奉仕することではないはずです。
 
イエス様は十字架への道を歩み通して私たちを神様の赦しと愛の中に入れて下さいました。苦しみは避ければ二倍になって返ってきます。苦しくはあっても担うべきものは担い、避けてはならないものは避けない。神様のお心を追い求めるイエス様の生き方にこれを見ますが、それ以上に、イエス様が私たちに神様と共に歩める道を開いてくださいましたので、イエス様と一緒に私の荷を担い直すのです。

2016年3月13日 「私を支えてくださる方」     
聖書:ルカによる福音書 9章10−17節    説教: 
 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 というのは、男が五千人ほどいたからである。
イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
  男およそ5000人にイエス様は給食をなさいました。これにあずかった弟子たちの感動が四つの福音書に記されて、伝わってくるようです。現代の私たちにも大きな慰め、励ましを与えてくれる記事です。
 
しかしこの記事は冷静に読みますととても承服でいない記事です。イエス様が嵐を鎮めた話は天候の突然の変化、いろいろの病気の癒しは心の平安と身体の関係やホルモンとの関係で説明がつくかもしれません。しかし5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人もの人に給食をしたことは説明ができません。しかも聖書は事実だけを記し、その奇跡の過程は一切記述していません。理屈に合うような説明は何もないのです。
しかし説明がつかないことはいくらでもあります。私が誕生したこと。伴侶と出会ったこと。ここまで導かれたこと。生かされてきたことは理屈では説明できません。
バプテスマのヨハネがとらわれていた牢屋で殺害され、人々は飼う者のない羊のようにイエス様の後を慕いました。イエス様も命を与えてくださる羊飼いとして人々と関わって下さいました。
私たちが自分の命を気遣う以上に私たちを気遣い、配慮し支えて下さるイエス様。パンと共に生きる全てを支えてくださるイエス様、ヨハネに福音書ではパンの給食は聖餐式を差し示すものとしるしています。
 

2016年3月6日 「神の国を伝える者」  
聖書:ルカによる福音書 9章1−節   説教:
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、 次のように言われた。
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
 
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。
しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
  イエス様は、あらゆる悪霊に打ち勝ち…神の国を宣べ伝え、病気を癒すため12弟子をお遣わしになりました。12弟子は病気を癒す力と権能を与えられ、弟子達はその務めを励んだに違いありません。病む人に寄り添う、この奉仕の業を通して神様の業が行われます。その際、病気が治ることは喜びですが、それが人生の根本的な救いではありません。大切なのは神の国を宣べ伝えることです。
 
神の国とは神の支配ということです。神の国を宣べ伝えるとは、神様の愛の支配が私たちを覆っていますよと告げることです。神の仏もあるものかと思い、なぜ自分がこんな苦しい目に遭うのかと思う人たちに、でも神様は愛をもってこの世とその人生を支配しておられることを語るのです。
 
「旅には何も持っていってはならない。…杖も袋も下着も二枚持ってはならない」とはユダヤの表現で極端と思いますが、物が伝道するのではありません。お遣わしくださる神様を信頼することです。
「どこかの家に入ったらそこに留まる」とは、よい待遇を求めて渡り歩くのでなく、腰を据えて義務と責任を果たして伝道することです。
「誰もあなたを迎え入れないなら、彼らへの証として足についた埃を払い落しなさい」とは、福音を語ることの重さです。神様の愛の支配を語り、それを受け入れないならあなたは神様の愛と無縁になるのですよという見識です。
 
領収ヘロデは、権力生きているようですが、権力を行使(バプテスマのヨハネの殺害)することでおびえと不安に陥りました。信じる方を持たない民もうろたえます。弟子たちは、そして私たちもそんな世界に、神様の愛の支配を、言葉と行動において語り続けます。