説教 


2016年4月24日 「神を愛し、生きよ」     
聖書:申命記 6章4−9節    説教: 
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
 
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
  「聴け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
 
 きわめて厳かに、しかも相手に聞くことを促す語りかけで宣言された言葉です。ユダヤ人は常住坐臥、この言葉に生きることが求められました。朝夕二度口ずさみ、亡くなった者の枕元でこの言葉が唱えられると言います。
したいかしたくないか、得か損かで行動するのではなく、全存在をかけ、人格的なあらゆる面に於いて、例外や制約を設けることなく、汝の神を愛せよというのです。
 
これが聖書の信仰で、これが聖書全巻を貫く主張です。このことが私の内に確立することが信仰を持つということです。このことが出来ていないところに人間の混乱と混沌の根源があります。その通りなのですが、問題は、私たちの「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(1ヨハネ2:16)から、これが実行できないことです。
 
イエス様は律法学者から第一の戒めは何かと聞かれたとき、即座にこの言葉を語り、同じこととして「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:34-40)と語られました。これが聖書全巻を貫く主張ですが、では旧約聖書と新約聖書の違いは何なのでしょうか。
それがいいとわかっていても神を愛せない私たちのために、神がイエス様によって私たちを愛してくださいました。これが福音です。

 

2016年4月17日 「歩みが整えられるとき」     
聖書:ルカによる福音書 9章28−36節    説教: 
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった
 
  イエス様には三つの大きな祈りがあります。公生涯の初めで神様の救いをはっきりさせる祈り(荒野の誘惑)、公生涯の折り返し点で神様の導きや御心を確認する祈り、そして最後のゲッセマネの祈りです。
山の上で祈っておられたイエス様の姿が変わりました。エルサレムでしようとしていることが、栄光に輝く神様の御業の現れるときであり、旧約聖書からも押し出されたことを確認する時でした。ここで整えられて都エルサレムへ登られます。
 
これを目撃した三人の弟子たちにとっても大きい体験でした。あなたは神のキリストと告白した後、キリストはみじめな十字架にかけられると教えられ、その後でイエス様の正体が明らかにされたのです。人の目にどう映っても、その本質は輝き、この後も「これはわたしの子、わたしの選んだ者、これに聞け」と言われるイエス様についていったらよいことが確認されたのです。それはペトロたちの迷いを吹き飛ばす、目の覚めるような時でした。
 
私たちも時に迷います。イエス様にお従いしていても、涙で目が曇り、「主よ、あなたの道を教えてください」と問い、「主よ、いつまでですか」と叫びたくなる時があります。その時私たちもイエス様の本質が明らかにされる山に登ります。それが礼拝です。

2016年4月10日 「十字架を負う者」     
聖書:ルカによる福音書 9章18−27節   説教: 
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」



   「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(9:23)
 
苦しみは二種類あります。第一は重荷です。イエス様は「重荷を負う者はわたしのもとにきなさい、休ませてあげよう」と招いて下さいます。肉体的、精神的、社会的な苦しみなど、生きている限りついて回る苦しみです。もう一つは十字架です。十字架はイエス様が神様のお心に従ったための苦しみです。重荷は避けられませんが、十字架は避けようと思えば避けられる、イエス様に従おうとするので出会う苦しみです。
 
 信仰に大小はありません。しかし幼い信仰と成熟した信仰の違いはあります。これは人の成長と似ています、子供の時はいつも自分が世界の中心で、自分にしてもらうだけを考えています。長じるに従って変わってきます。してもらう者からする者へと変わりますイエス様と一緒に神様のお心を行い、苦しみにあずかってゆきます。
 
 自分に都合のよい時は従うけれど、都合が悪くなったら従わないというのであれば、人格的な交わりの本当の喜びは分かりません。その人から幸や益を受けることも嬉しいですが、その人のために苦しめることも嬉しいことなのです。苦労できる喜びを知るまでは人格的な交わりの本当の喜びを知りません。命をかけて私たちを愛してくださったイエス様は、この喜びに満ちた「苦労」へと私たちを招いておられます。

2016年4月3日 「この街の平安を祈る」  
聖書:エレミヤ書 29章1−14節   説教:
以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。 それは、エコンヤ王、太后、宦官、ユダとエルサレムの高官、工匠と鍛冶とがエルサレムを去った後のことである。この手紙は、ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもとに派遣したシャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤに託された。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。
主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
  バビロンに敗れ、奴隷として連れていかれたイスラエルの民に明日の希望はありません。人々はせつな的で投げやりになったり、逆に甘い予想を立て、それを煽る人もいました。そんな同胞にエレミヤは手紙を書きました。
 
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。」  
その街に責任あるかかわりをせよと。この言葉はバビロンに媚を売り、祖国を裏切る生き方のようにも聞こえます。ですからエレミヤと全く逆の生き方をとく預言者や占い師もいました。
 
「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
真に歴史を導く神様を信じているので、置かれた土地で責任ある生き方をします。自分を投げたり、刹那的にもならず、自分だけが安逸に生きるのでもなく、周りに神様の平安と祝福を祈る生活をするのです。
 
大宮前教会はここに建てられ今年で創立80年を迎えます。教会が宮前の地にあることは、教会にとっても幸いですが、この街にとっても幸いとなる歩みをこれからもし続けます。