説教 


2016年5月29日 「宝の民」       
聖書:申命記 7章6−11節    説教: 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
 
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。
あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。
 
  「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」
 
「聖なる民」とは、新約聖書の「聖徒」と同じで、他とは区別され、神のものとされた民。「宝の民」とは、神様のかけがえのない宝とされた民ということです。これは神様のイスラエルの民(信仰者)への宣言です。
 
信仰者は、神様がどういう神であるかを知り、その神様を信頼し、お従いする者です。しかしそれだけなら信仰の半分しか分かっていません。神様がどのような方かが分かると言うことは、私がその神様からどのように扱われたかを知ることであって、私の尊さに気づくことでもあるのです。神様を知る以上に神様に知られていることに気づくことなのです。
「あなたがたはかつて、神を知らずにもともと神でない神々の奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っているのに、いや、神に知られているのに…」(ガラテヤ4:8)とパウロは言い、ここに信仰の確かさがあります。
 
猿形の信仰と猫形の信仰があります。猿型は、しっかり自分で母猿にしがみついて移動します。主体的でいいようですが、子猿が手を放したとたんに地に落ちます。猫形とは、宅急便のトレードマークのように、母猫が子猫の首根っこをしっかりくわえて移動します。ここに子猫の確かさがあります。
 

2016年5月22日 「神様のみ手の中で」      
聖書:ルカによる福音書 9章49−56節     説教:  
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
 
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
イエスは振り向いて二人を戒められた。 そして、一行は別の村に行った。
  「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人がわたしたちの仲間でないのでやめさせました。」

考えてみれば、私たちの毎日は弟子たちを同じで、自分のメンツやプライド、セクト主義や拡張主義でどれほど毒されていることでしょう。いらぬ摩擦や軋轢はあらかたここからきています。
問題は寛容になることであり、相手の善意を認めるふところの広さです。そうなのですが、それは決心して出来ることでしょうか。一時はできても、自分の寛容さは長続きしないのです。相手の善意を認めることは何か事があると吹き飛んでしまします
問題は神様の御業をその人の中に見ることができるかどうかなのです。自分も神様の御業にあずかっていますが、相手も神様の愛と御手の中にあるのです。自分の思いや視野を越えて、神様の御業が進められていることを認めることができませんか。
 
「『主よ、お望みなら、天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか』イエスは振り向いて二人を戒められた。」
 
イエス様からサマリヤの村に遣わされたヤコブとヨハネは、そこでひどい扱いを受けたのでしょう、腹に据えかねた二人の物騒な言葉です。
自分が良いことをしていてもそれが素直に受け止められず、思わぬ誤解を受けることさえあります。
(愛すれば愛が返ってくるとは限りません。愛してそれが返ってこない。それで愛は忍耐強い、情け深い,ねたまない、いらだたず恨みを抱かないと言われている通りです。一コリント13:4‐7)
神のみ手の中で事柄をとらえるのです。

2016年5月15日 「子供を受け入れる」     
聖書:ルカによる福音書 9章46−48節     説教: 
 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
  弟子たちの間で、自分たちのうちだれが一番偉いかという議論が起きました。山上の変貌を見た弟子たち、山の下で悪霊につかれた子供をいやせなかった弟子たち、それが伏線にあったのかもしれません。他人と比べて順位を決める。これは私たちの心の奥に巣食っている思いです。
 
イエス様はそんな弟子たちの思いを知って、一人の子供の手を取り、そばに立たせて言われました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と。
この時代子供とは、あの愛らしい子供ではなく、律法を守らず、すぐに病気になり、時には小憎らしくわがままで、経済的には無価値で、じゃま者扱いされる人のことです。
 
私たちは友達になりたい人と、出来ればつきあいたくない人を素早く見分けます。世の中は自分の都合を基準として偏見と差別に満ちています。イエス様は、人を有用か否かで見るのをやめて、「子供をわたしの名のために受け入れよ」と言われます。
 
 「子供」を受け入れよというだけなら人道主義者も同様に主張します。私たちが「子供」を受けいれるのは、実はイエス様がこの私を「子供」として受け入れてくださっているからです。このことに気づいているでしょうか。
自分がかけがえのない者として尊く扱われている。この扱いから私の隣人を見るのです。
 

2016年5月8日 「起きあがりなさい」     
聖書:ヨハネによる福音書 5章1−9節    説教:小島誠志牧師 (元日本基督教団議長、久万教会牧師)
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。†
 
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
  「良くなりたいか」とイエスが聞いたとき、38年間病気で床に横たわっていた人は言いました。「だれも自分を助けてくれる人はいません。水が湧き出るとき、みんなわれ先にと池に向かうのです。」38年間床に横たわっている間、彼は人の冷たさが身にしみてわかりました。
 しかしそのようにして人を批判し、世間を恨んでも何も変わりません。考えてみれば、人間は世の中を批判しながら結局「横たわっている」にすぎないのです。
 
 救い主イエスは言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
ぐずぐず言わずに頑張って起き上がりなさい、と言われたのであはりません。気力をふりしぼれ!と言われたのではありません。わたしが(救い主であるわたしが)君のところにきているから、君と一緒に歩くから、「起き上がりなさい」と言われたのです。
人間にはまだ可能性がある、と言うのではないのです。弱りはて、倒れ伏しているわたしたちのところにまで、神の救い主は下りて来てくださっているのです。一緒に歩いてくださるのです。だから「起き上がりなさい」。
 
「床を担いで」。床は彼をしばりつけていました。床から世界を眺めていました。
しかしその床は担げるのです。冷たく閉ざされているように見える現実は、歩けるのです。復活の主が共にいてくださるから。
 神の備えてくださる永遠の命に向けて、だれの前にも道は開かれてくるのです。
 

2016年5月1日 「担われるという救い」  
聖書:ルカによる福音書 9章37−45節   説教:
翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
 
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

  栄光の山の上から下りてきたイエス様の一行に、病気の子をもつ父親が救いを求めました。イエス様の留守を預かった弟子たちには救えなかったからです。イエス様は、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか(神様を無視して己が腹を神とする間違った時代か)」と言われ、「いつまでわたしはあなたがたと共にいてあなたがたに我慢しなければならないのか(よこしまな時代に我慢が切れたという意味ではなく、途中で落とすわけにいかないのでしっかり支えるけれど、いつまであなたがたを支え続ければよいのか)」と言われました。そして息子を救いました。人々はこの業に目を見張りますが、イエス様は人々の目をすぐに十字架に向けさせます。
 
「真に彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った」(イザヤ53:4)と記され、ここで十字架のイエス様が預言されています。病いが癒されるにこしたことはありません。しかし癒しには、病いも含めて悲しみや痛みに寄り添われる癒しがあります。
私たちは何か問題が起こるとその原因を聞きます。その原因や結果を分析して、自分を納得させます。それは悲しみでも病気でも皆そうです。その作業で自分は納得しますが、病人には何の助けにもなりません。病人に必要なのは分析されることではなく、病気を一緒に受け止め、担い、病人と一緒に歩んでくれる人です。その問題を一緒に担ってくれる人がいてはじめて癒されます。
そういう隣人と、寄り添ってくださるイエス様が私たちにはいるのです。私はイエス様に寄り添われました。そしてわたしに出来る仕方で今度は隣人に寄り添うのです