説教 


2016年6月26日 「人はパンだけで生きる者ではない」     
聖書:申命記 8章1−10節    説教:  
今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。 あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。 不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。 あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。
  「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅を思い出しなさい。…主はあなたを苦しめ、餓えさせ、あなたの先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」
 
この言葉は有名で、ある人はこう言います。「人はパンだけで生きるのではない。その通りだ、しかしそれは余裕のある時の言葉であって、切羽詰った時にはそんなことは言ってはいられない。矢張りパンがなければだめだ」
 
40年の荒野の旅はいつも飢えとの戦いでした。この言葉は愛の神なのにひどいと思います
しかしこの言葉はそんな表面的なことではありません。むしろ逆です。残念ですが人は、嬉しく喜ばしいことからは人生の真は学べず、苦しみ・悲しみから人生の真実を学びます。旅の苦しみの一つひとつの背後に神様のみ手を見ているのです。それは神様がイスラエルを訓練されることでもあり、それで、神はイスラエルの民を苦しめたと表現します。そこに神様の御手を見ていますので、苦しみの中で決してあきらめませんし、その苦しみによって整えられていきます。
 
「切羽詰った時には矢張りパンが必要だ」という言葉は、信仰を知らず、人生を上辺でしか見ていない人の言葉です。本当は、切羽詰った時に何が本当の支えなのかを熟考したいと思います。そのとき人を真実に生かし希望を与えるのは神様からの魂に語り掛け、私を肯定してくださる言葉なのです。
豊かさの恐ろしさは、本当にわたしを支える方が見えなくなることです。

2016年6月19日 「神を知る幸い」     
聖書:ルカによる福音書 10章17−24節    説教:  
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
 
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
 
それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」



  弟子たちは「神の国は近づいた」と伝えました。そこには目を見張るような業が起こりました。救いは、神の国(神の支配)がここにあると告げられ、その支配に生かされると、サタンが稲妻のように天から落ち、サタンの手下の蛇やサソリが足の下に踏みつけられるのです。私たちは自分のしていることの大きさに気づく必要があります。それを告げる小さな私たちの名が(入学合格者の名前が記されるように)天の名簿に記されるのです。神様のものとされた証拠です。
 
病む者は病が癒されることが救いだと思います。しかし病気が治っても家族のことで苦しみ、更に事や家族のことで苦労します。それらの解決が救いだとしたら、救いはいつも目先だけの救いとなります。苦しみの中で(人生に苦しみのない時などあり得ないのです)神様が愛をもって支配してくださっていることを知ること、その愛の支配の中で苦しみや課題と取り組めること、これが救いです。
苦しみを整理する必要がありあります。変えられる苦しみと変えられない苦しみがあるからです。神様の愛の支配の中で変えられるものは変え、変えられないものは担いなおすのです。
 
このことは誰にでもわかることではありません。知識としてわかることと体得できることは違います。神様のことを理解する知者ではなく、何の頼るものもなく、支えなしでは生きられない幼子、神様に助けていただく以外助けのない幼子だけが、神様の愛の支配に目が開かれ、すがれるのです。
あなたは何を持ち、何にすがるのですか。
 

2016年6月12日 「平安を祈る者」     
聖書:ルカによる福音書 10章1−16節    説教: 
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
 
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
 
  イエス様は12弟子のもう一回り外側にいる72人も二人一組にして町や村へ遣わされました。ルターは「キリスト者、およそイエスを信じ主に従う者はみな、キリストの名代、小キリストとなる」と言っていますが、それを現代の私たちも受け継いでいます。
 
72人を遣わすに当たって、イエス様は「平安がこの家にあるように」を言いなさいと語られました。伝道とは、神様の平安を祈ることなのです。
私たちが伝道を考えるとき肩ひじを張ってしまいます。自分の信じている中身を系統だって伝えることや、聖書の言葉でその人を説得することと考えたりもします。
しかし伝道とは、「神の国は近づいた」「神様が愛をもっていま、ここも支配してくださっている」と伝えることですから、その神様の平安をその人やその家族に祈ることなのです。悲しんでいる人、明日に不安を覚えている人に「でも聞いてください。本当に神様は愛をもって支配しておられるのですよ」と伝え、神様の平安を祈ることなのです。
 
でも皆がみんなこのことを聞いてくれるとは限りません。苦しんでいるからこそかたくなに拒否されることだってあります。残念ですが伝道にはそういうこともあります。そんな時平安はその人に留まりません。その際、これを拒むなら神様の平安と無縁になるのですよ、それでもいいのですかという思いがあるでしょうか。神様の愛に生きる喜びや素晴らしさに生きていることから出てくる思いです。
 

2016年6月5日 「主に従う」  
聖書:ルカによる福音書 9章57−62節   説教:
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
 
そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
 
また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

  イエス様は、いよいよ十字架の待つエルサレムに向かって出発されます。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人にイエス様は言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」狐にも、鳥にも休むところがある。しかしイエス様には地上では枕するところがなく神様の業に向かって進まれます。
                                              
別の人に、「わたしに従いなさい」と言われますが、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてくだださい」と言い、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」とイエス様は言われました。
死にゆく時の不安、孤独、苦悩、死はどんなに盛大にお葬式をあげても、罪の赦しとよみがえりがない式では暗さとあきらめがついて回ります。
父を葬ることは悪いことではありませんし、むしろ子の義務です。イエス様はここで文字通り父を葬ることを禁じたのではなく、十字架にかかり甦られたイエス様が語られ、神様の生と死を貫く愛の支配が信じられることがほんとうの解決であり、神の国(神の支配)を伝えることがあなたの使命だといわれます。
 別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエス様はその人に言われました「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」
イエス様によって始まる神様の救い、それは始まった。イエス様も鍬に手をかけておられますが、神の国のために一緒に働こうと招いておられるのです。