説教 


2016年7月31日 「心の皮を切り捨てよ」     
聖書:申命記 10章12−22節   説教:  
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。
あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。

 
  この箇所でモーセは、主を畏れ・愛し・仕え・戒めを守って幸いを得よと言い、続いて「心の包皮を切り捨てよ、二度とかたくなになってはならない」と語り、更に人を偏り見ず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛しなさいと命じます。

人は良いと分かっていても実行しません。出来ないのではなく、したくないのです。それでモーセは「心の皮を切り捨てよ。かたくなになるな」と言います。
エレミヤは「新田を開拓せよ。割礼を受けて主のものとなり、心の皮を取りされ」(4:3-4)と語り、エゼキエルは「石の心を肉の心に変えられよ」(11:19)と訴えます。問題はいつも、この心のかたくなさなのです。
 
薬師寺の高田好胤管主の少年時代にこういう逸話があります。彼は好き嫌いの激しい少年で、ナスが嫌いでした。それを知った母は彼がナスを食べるまでそれを出し続けました。彼は何もナスだけが野菜ではない、必要な栄養は他からでも取れるではないかと思ってそれを拒否し続けますが、母には母の思いがあったのです。栄養のことではなく、ナスが食べられないという自分の問題を克服させたかったのです。いつものように食べないナスを下げる母の姿がなんとなく頼りない、そこで彼はハッと気づいたのです。彼が意地を張っている間、母は食を抜いていたのです。固い心を溶くのは、理屈ではなく、愛だけなのです。
良いと分かっていても従わない私たちに、神様は最後に御子を遣わして愛をお示し下さいました。

2016年7月24日 「求めよ」     
聖書:ルカによる福音書 11章1−13節    説教: 
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
したちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
 
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる
  イエス様は「主の祈り」をお教えくださったあと、求めて生きよといわれます。求めれば必ず与えられます。求めるものは自分の救いです。
 
真夜中の突然のお客でパン三つ(一日分)が必要になった者が友達に借りに行きます。一日のしまいをつけて床に入っている友人。「友達だからということでは起きて何かを…与えることはなくても、執拗に頼めば必要なものを与えるであろう」とおしゃってしきりに願うことを教え、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」とおっしゃられました。
いくら神様が与えようと思っていても、求めのないところにはとどきません。与えられても求めのない者にはそれは身に付きません。だから「求めよ」「求めて生きよ」と言われます。
 
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13)マタイ福音書は「天の父は求める者に良いものを与えてくださる」ですが、ルカ福音書は「聖霊を与えてくださる」となっています。
生きる上でのさしせまった必要、あの事このことが聞かれることは幸いなことです。私たちの必要を知ってくださっている天の父なる神様に願い、祈れることは幸いです。
しかしもっと幸いなことは、神様が私の味方であった事の発見です。私がどんな中に置かれても私には天の父が共におられる、これが最大の喜びであり救いです。それを私に知らせてくれるのが聖霊です。求めれば必ず聖霊が与えられるのです。


 

2016年7月17日 「主の教えられた祈り」      
聖書:ルカによる福音書 11章1−4節    説教:  
 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
  弟子たちはイエス様に、ヨハネが教えたように私たちにも祈ることを教えてくださいと願い出ました。それはイエス様の祈る姿を見たからで、イエス様の祈りに接すると、それまで自分のしてきた祈りが祈りでないように思えたからでした。
それで主は祈りをお教えくださいました。「主の祈り」です。ルカとマタイは多少異なりますが、内容は同じです。
 
「父よ」これは幼児が全幅の信頼をもってする父への呼びかけです。「御名をあがめ、御国が来ますように」とは、神様を真実神様とできますようにと言いうことです。
「日ごとの食物を日々与え、負債ある者を赦しますから私たちの罪を赦し、試みに合わせないでください」の三つは、私たちの過去・現在・未来への祈りです。
 
祈りを教えられたことは何と幸いなことでしょう、調子よくいく時、行きつまり、立ち向かう気力の萎えたとき、私たちにはこの祈りが与えられました。人を愛さないことへの報いは、人を愛せなくなることです。祈らなくてもやっていける、祈っても無駄だと思って祈らない、こんな苦しい出来事の前で祈れない。でも祈るのです。祈らないことへの報いは、本当に祈りが必要なときに祈れなくなることです。
その一言ひとことをかみしめ、小さく声を出して祈り、自分を整えてゆきます。
 

2016年7月10日 「必要なものはただ一つ」     
 聖書:ルカによる福音書 10章38−42節   説教: 
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 
  イエス様の一行がマルタとマリアの家に来ました。お客をすることは大変なことで、マルタはもてなしのため忙しく立ち働きましたが、マリアはイエス様の足元に座って話に聞き入っていました。
マルタは自分とマリアの違いをイエス様に訴えました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」もっとものことです。しかしイエス様はおっしゃいました。「あなたは多くのことに思い悩み心を乱している。必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と。
 
イエス様はマルタの働きを否定したのではありません。マルタはイエス様をもてなそうと立ち働きそれも必要です。実はマリアもイエス様をもてなしています。マリアはイエス様への最大のもてなしは、イエス様が持ち運んでこられた神の愛の支配を聞き入り、慕い、しっかりと受け止めることだと思い、そうしたのでした。もてなしとはイエス様が一番求めていることを差し出すことです。そしてそれがマリアにとっても必要なただ一つのものなのです。
 
無くてならぬものとは、他のものでは代用の利かないものです。もう駄目だと思った時、私を本気で支えてくださる方のいること、明日に希望が持てない問題のさなかで「わたしはあなたを贖った、あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と言ってくださる方のいること。イエス様によって明らかにされたこの神様の愛の支配に聞き、生きることなのです。
 

2016年7月3日 「隣人となる」  
聖書:ルカによる福音書 10章25−37節   説教:
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
  律法学者はイエス様を試そうと「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と尋ね、逆にイエス様から律法には何と書いてあるかと問われました。彼は「心を尽くし、…力を尽くして主なる神を愛し、また、自分を愛するように自分の隣人を愛せよ」と書いてありますと答え、イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい」と言われます。
 律法学者は自分を正当化しようとして「わたしの隣人とは誰ですか」と問い、イエス様は良いサマリヤ人の話をされました。〈追いはぎに襲われ、身ぐるみはぎとられ、半死半生の目にあった旅人のかたわらを祭司、レビ人は横目に通り過ぎ、サマリヤ人は彼を憐れに思って近寄り、傷の手当てをして宿屋につれていき、翌日には費用が掛かったら帰りに支払うからと宿屋の主人に旅人を託した〉という有名な話です。
「隣人とは誰ですか」との問いに「誰が隣人となったと思うか」答えられます。隣人とは見つけることではなく成ることだ、と。


私たちは祭司やレビ人でしょうし、それ以上に身動きの取れない傷ついた旅人でしょう。そんな私たちに良きサマリヤ人としてのイエス様が近づいてくださいました。
どうしたら生きていてよかったという命に生きられるか。神を愛し隣人を愛する。それが出来ない私たちのためにイエス様が真の隣人となってくださったのです。そこから押し出されて、私も、大それたことをするのでなく、私のできる仕方で隣人となるのです。ここに生きる手ごたえがあります。