説教 


2016年8月28日 「偶像礼拝の問題」      
聖書:申命記 13章2−6節    説教:  
預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。
あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。
 
  約束の国を前にもう一度律法を再確認したのが申命記です。「領土に住むようになった時『この国の民はどのように神に仕えていたのだろう。わたしたちも同じようにしょう』と言って彼らの神を求めることをしないように」と確認します。
 
聖書は全巻を上げて偶像礼拝を戒めています。
詩編著者は「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。…」(詩115篇)と人の造った偶像を揶揄し、新約聖書でパウロは、もっと徹底して「世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。…たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても…万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです」(1コリント8章)と言います。
 
姓名判断はペルシャ人には意味がありませんし、墓相を問題にする人は十字架の墓石をなんと言うのでしょう。時間と空間が超えられないものは真理ではなく迷信です。医学と社会が発達してなくなる信仰はなくなったらいいのです。しかし、どんなに医学が発達し社会制度が整っても、死、不条理、罪、赦し、生きがいなどに光が当てられなければならず、信仰はそこで勝負するのです。
 
人が偶像に心惹かれるのはご利益を求めてか、不安からです。「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」(口語訳十戒第2戒)  実は、偶像は自分のためなのです。
私たちには、「主は荒れ野で彼を見出し、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られ」(申命記3:10)、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神様がいるのです。この神様の愛の支配の中で勇気と感謝をもって生きるのです。
 

2016年8月21日 「確かさとしなやかさ」     
聖書:ルカによる福音書 11章37−56節    説教: 
イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
 
  ファリサイ派の人について、私たちは「偽善なファリサイ派の人」という印象を持ちますが、実際は違います。イスラエルが大国に支配され、人々が神様を捨てようとするとき、このグループの人々はしっかり信仰の立ち続け、他の人々と区別されました。生活の隅々まで神様に従おうとして、定めに従って香辛料まで十分の一を神様に捧げている人々です。律法の専門家は、たえず律法を研究し、人々に教え、信仰生活を指導している人です。
 
その行いが人の目に立派なので、そこに落とし穴がありました。その立派な行いを人は注目します。するといつの間にか神様の目以上に人の目が気になりだします。立派な行いをしているので、いつの間にかだれにでもからみついた罪が見えなくなます。人に教えていると、いつの間にか自分はできているように思ってしまします。
 
イエス様はその問題の中心を、あるゆることで戒めに従おうとしているが「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と指摘されます。自分の思いではなしに神様の求める正義と隣人を愛することで全うされる神への愛が見えていないのです。
 
決して見えることに流されずに神様に従う確かな姿勢、そして隣人への愛。義に生きようとすれば愛がおろそかになり、愛に生きると義に目をつぶることになります。この義と愛の両方を見据えて生きるのです。このむつかしい生き方をイエス様によって導かれます。   

2016年8月14日 「澄んだ目を持つ」     
聖書:ルカによる福音書 11章29−36節    説教: 
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
 
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
  イエス様が鮮やかに口をきけなくする霊を追い出されたのを見た一部の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」といい募り、神から遣わされたというしるしを求めたのでした。
「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエス様は言われます。
 
しるしを求めることは何が問題なのでしょうか。イエス様が神の子であることの証拠を求めるのは、それを見て神の子であるかどうかを自分で判断するためです。最終的に、いつも自分が中心で、神様さえ自分の都合に合わせて考えてしまうことです。
人格関係に証拠が持ち出されたら、その関係は破たんしています。親としての証拠を見せて子がそれを検証して父として認める。それは人格関係ではありません。権利義務の関係です。
 
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」目は内側のものを写し打しますが、見るべき光を濁りのない目で見てそれをうちにしっかり蓄えるところから来ます。
 
なぜしるしを求めるのでしょうか。なぜ父なる神様を信じられないのでしょうか。イエス様によって父なる神様の愛の支配が始まっていることを、こだわりのない澄んだ目をもって見ることはできないでしょうか。そんな私たちに、イエス様は十字架にかかり三日目によみがえるヨナのしるしも与えてくださっています。

2016年8月7日 「神の支配に生きる」  
聖書:ルカによる福音書 11章14−28節   説教:
イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
 
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
 
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

  この人は耳が悪かったのでしょう。それでものが言えませんでした。悪霊の呪いの中で希望を失い、孤独の中で人生をかこつていたと思います。そこにイエス様が来て、彼を鮮やかに救ってくださいました。
イエス様があまりに鮮やかに御業をあらわされたのを見て、あるグループの人たちは「悪霊の頭によって悪霊を追い出した」といい、それが神さの業かどうか天からのしるしを見せよといい募りました。目の前で御業が行われたのでそれを否定することはできず、あえてイエス様の業を捻じ曲げたのです。
 
悪霊におびえているのは当時の人だけではありません。二つ三つの不幸が重なるとおびえ、この医学が発達した現代でも、DNAや遺伝子が解明されることで、将来患うかもしれない病気までわかり、かえって不安に陥ります。
しかし彼は、そして私たちも、悪魔の支配下にいるのでもなく呪いの中にあるのでもありません。イエス様によって明らかにされた神様の支配、私たちは神様の愛の支配(神の国)の中に生かされる者となったのです。イエス様によって明らかにされた神様の愛の支配を、思い込みや、こだわりのない目で見られませんか。そしてその支配にゆだねて生きられませんか。
 
不安の中に住む私たちに、神様は友人や家族を与えてくださり慰めや励ましを与えてくださいます。その横からの助けだけでなく、イエス様をお遣わし下さって聖霊の導きによって縦からも平安と励ましをお与えくださいます。