説教 


2016年9月25日 「過越の犠牲」     
聖書:申命記 16章1−8節     説教:   
アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。
七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。 七日間、国中どこにも酵母があってはならない。
祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、 ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。
夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。 それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい六日間酵母を入れないパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために聖なる集まりを行い、いかなる仕事もしてはならない。
  申命記16章にはイスラエルの三大祭が記されています。
過越と除酵の祭りはエジプトを脱出した民族の誕生を記念し、春分の後の満月の時、大麦の取り入れの時期に守ります。私たちはこの時イエス様の十字架とよみがえりを記念して守ります。
七週の祭り(ペンテコステ)は、過越から数えて50日目小麦の刈入れの終わる頃、モーセが十戒を与えられたこと、民族の信仰が誕生したことを記念します。私たちは聖霊が下った日として守ります。  
仮庵の祭りは秋分の満月の後で、40年の荒野の旅を仮庵を作ってしのぶ秋の収穫の時ですが、私たちにはあまりなじみがありません。イスラエルの民にとっての祭りは、単なるお祝いではなく、神様の救いの事実を追体験することでそれは私たちも同じです。
 
過越と除酵の祭りの起源は出エジプト記12・13章に記されています。奴隷だったイスラエルの民が救われるためには神様の10のしるしがありましたが、最後は子羊が屠られて門にその血が塗られたイスラエルの家は主の使いが過ぎ越すという不思議がありました。それをしていないエジプトの家には災いが及びました。酵母を入れたパンは傷みやすく、出エジプトのあわただしさの中では発酵時間を待つ余裕もありませんでした。その救いを追体験するのが過越と除酵の祭りです。
 
人は犠牲なしには生きられません。私たちは人を支えますが、それ以上に支えられ、配慮されています。隣人からも、そして実に神様からも。私たちが生きるために過越の子羊イエス様が屠られました。この事実があったのです。ですから、私たちは神の救いに入れられているのです。
これを追体験するのが聖餐です。
 

2016年9月18日 「精一杯生きよ」     
聖書:ルカによる福音書 12章22−34節     説教:  
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようかこんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ
あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
  兄弟が父の遺産を分けてくれない。遺産のことで頭が一杯の彼にもっと深いところからこの問題の解決を教えられました。まず遺産を分けてくれない兄の貪欲の問題を「愚かな金持ち」のたとえで語り、そのあと遺産が手に入らないと生きてゆけないと考える弟に「思い悩むな」という有名な教えを語ります。
 
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。…あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」
このお言葉はその日暮らしを勧めたり、無責任な生き方を教えたものではありません。自分でできることと自分には出来ないこと。自分の責任ですることと神様にお任せしなければいけないことを教えています。
 
「思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 …小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
 
思い悩むとは取越し苦労です。神様の配慮を信じない自分で明日にレールを敷いてしまい、苦労を先取りすることです。信仰者にも苦労はありますし病気もします。家庭のことで悩み、仕事のことで行き詰まります。ただ信仰者はその時「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」方の手の中で悩むのです。
それがわかれば、悩むことは工夫や努力に変わります、いつのまにか。
 

2016年9月11日 「神の前に豊かになる」     
聖書:ルカによる福音書 12章13−21節    説教: 
群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 
  ここに気の毒な人がおりました。兄弟が父の遺産を分けてくれないのです。思いあぐねてイエス様のもとに来て、仲裁を頼んだのでした。しかしイエス様は「だれがわたしを裁判官…に任命したのか」と言われ、遺産のことで頭が一杯の彼にもっと深いところからこの問題の解決を教えられました。
まず遺産を分けてくれない兄の貪欲の問題を「愚かな金持ち」のたとえで語ります。
 
この農夫は働き者でした。土壌を管理し、作物の状態を見続け、朝早くから夜おそくまで勤勉に働き続けたに違いありません。天候も幸いして作物は大豊作でした。彼は古くて小さい倉庫を壊し、新しく大きな倉庫を建て、取れた作物を全部しまったのでした。そして「何年も生きていく蓄えができた」と言って、飲み、食い、楽しんだのでした。しかし彼はその夜に命を取られたのでした。
勤勉が悪いのではありません。「飲め、食え…」といって豊作を祝うことが悪いのでもありません。

問題はその事柄の背後に自分しか見えていないことです。口語訳聖書では「私の作物、私の倉」と言って、農業に伴う隣人の様々な配慮や支えが見えていません。
しかも彼は自分のことも見えていません。大豊作の前に、だれの人生にもある痛み、悲しみ、自分の思い通りにゆかない辛さ、自分のもろささえも見えていないのです。
またすべての支配者である神様が見えていないのです。命は財産によってどうすることもできないことをわきまえず、財産に確かさを求めたのでした。
財産によって自分のために富を積む自我の束縛から解放されて、命や持ち物は自分のものであっても自分のものではないことが見えるためには、その所有を神様に委ね、改めて神様から託されることとして受止め直す。これがはっきりすると神の前に豊かにされ、自由が生まれます。思い煩いから解放されます。

2016年9月4日 「誰を見て生活するか」  
聖書:ルカによる福音書 12章1−12節   説教:
とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。
イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。
覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
 
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
  イエス様は「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい」と言われました。偽善とは演技をすることです。パリサイ人は信仰に立とうとするグループで、それだけにみんなから注目されていました。それでいつの間にか人の目を意識して、その行いが本音と建前を使い分けるものなってしまったのでしょう。どんなに演技をしてもすべてのことは明らかになります。「覆われているもので表されないものはなく隠されているもので知られずに済むものはない」からです。
 
人はまた、人を前に演技もしますが人を恐れます。恐れの最も深いところにあるものは命を失う恐れです。私たちは「命あってものも種」と言って、生きている時に一切のケリがつくと思っています。しかしそんなことはありません。生きている時に決着のつくこともありますが、本当の決着はその後なのです。私たちは毎週「(イエス様が)かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しています。ですから「体を殺したあとでさらに地獄へ投げ込む権威のある方を恐れる」のです。
 
これを語るイエス様は私たちに「友人であるあなたがたに言う」と言い、価値のない一羽の雀を覚え、髪の毛一筋まで知っていると言われます。知られていることはなんと恐ろしいことでしょう。しかしまた何と幸いなことでしょう。私の弱さや破れもすべてをご存知でもあるのです。
私たちを「私の友人」と言ってくださっているイエス様のまえで肩肘張らずに、背伸びをして歩かないでいいのです。みんなの前でイエス様を告白し、ほめたたえて生きます。