説教 


2016年10月30日 「呪いと祝福」     
聖書:申命記 21章22−23節    説教:   
ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。
木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。
 
  「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」(申21:23、ガラテヤ3:13)
 
旧約では、死罪にあたる罪を犯した者は石打ちで処刑されました。その後木にかけられ、神に呪われた者として見せしめにされたのです。しかし木にかけられた者はその日のうちに木から降ろされ葬られました。人々が神様からの祝福を受ける場所が呪いで汚さないためです。
十字架刑はフェニキヤを起源としローマが採用した刑で、苦しめて処刑することとさらす事が一つとなった刑罰ですから、木にかけることとは違います。しかし、パウロや福音書記者は「罪のゆえに神に呪われる者となった」こととして身代わりとなられたイエス様の十字架を見ます。
 
私たちが考える呪いは人の恨み、つらみからくる人間同士の呪いです。しかし聖書の呪いは、神様からの呪いで、いつも罪と関わっています。罪は必ず罰せられ不問にされることはありません。
「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らないものはみな呪われている」(ガラテヤ3:10)のです。呪われて罰を受けないためには償いが必要です。イエス様は罪の呪いとなってくださいました。今や私たちは呪いから解放され、神様の祝福の中に入れられているのです。
 
私たちは結婚や子の誕生に祝福を見ます。その子が亡くなると呪いを見るかもしれません。しかし私たちは、キリストが木にかけられて呪いを受けて下さったことにより、どんなことがあっても祝福の中に入れられているのです(ローマ8:31−38)。
 

2016年10月23日 「時なある間に」      
聖書:ルカによる福音書 12章54−59節     説教:  
 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
 
あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
  イスラエルでは雲が西から起こると、地中海の水分を吸った雲ですから雨がやってきます。南風が吹けば、砂漠からの風ですから熱くなります。人々はこのように空の模様を見分けますが、神の国の「時」を見分けることはしません。「偽善者よ」と言われます。形は神様を畏れているように見えて、その実高をくくっている人です。
私たちは神様の前に立ちます。その時は最後の1レプトンまで支払いが求められます。なぜ「時」を見極め、神様のお心を判断しないのか。仮面を脱いで時のある間に神様と和解せよと言われます。
 
私たちはやがて神様の前に立ちます。これは聖書の一貫した主張です。毎週使徒信条で告白している通りです。私の人生に死の終わりがあるように、この世に終わりがあります。その終わりは完成の時でもあります。その時はまるで隠している押入れが開けられるように、隠されたものが明らかにされます。悪がそのまま放置され、流された涙が不問されることはありません。終わりの時は裁きの時であり、この世の完成の時なのです。
 
世間の人は、自分の終わりは承知しても、この世の終わりも裁きも認めません。
信仰者は神様を信じている者です。神様を畏れている者です。やがて神様の前に立つ。隣人と和解し、神様の赦しを願いつつ、今の歩みを整えてゆく者です。

 

2016年10月16日 「羊飼いのいる人生」      
聖書:詩 編 23篇1−6節     説教:  
 【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
  詩編23編は、聖書の中で最も愛されている個所の一つです。ここには難しい言葉も議論もありません。羊は私たち、羊飼いは神様。羊である私たちには神様が羊飼いとしていてくださる、その羊飼いへの信頼、羊飼いに委ねることの喜び、羊飼いに従う平安が歌われています。
 
この歌の背景は荒涼とした岩山であり、いつ命を狙われるかもしれない殺伐とした荒野ですし、水の乏しい砂漠です。
 羊は茶色の岩肌にめだつ白い毛で覆われ、戦う角も、牙もなく、逃げるための俊敏な足も持っていません。羊は、羊飼いがいなければ食べることも飲むこともできず、たちまち敵の餌食になってしまいます。
 
 私たち羊には羊にできることと、羊飼いの神様に任さなければならないことがあります。
  「神よ、変えることのできないものはそれを受け容れる心の落  ち着きを与え給え。
  変えることのできるものは、それを変えるだけの勇気を与え   給え。
  そして変えることの出来るものと、出来ないものとを見分ける  知恵を授け給え。」   
                   ラインホルト・ニーバーの祈り

羊の私たちに羊飼いがいる。しかも大切なことは、私たちが牧者と共にいるのではなく、牧者が私たちと共にいてくださることです。主語は神様。神様が羊飼いとして私たちと一緒にいてくださいます。
信仰とは、わしが神様と一緒に歩むことではなく、神様が一緒にいてくださることに気付くことです。生ける時も死ぬ時も。


2016年10月9日 「キリスト来臨の目的」     
聖書:ルカによる福音書 12章49−53節    説教: 
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」
  イエス様は一度来られました、それがクリスマスです。もう一度来られます。それが再臨であり、終末の時です。私たちはイエス様の初めの来臨と二度目の来臨の間を生きています。
 
イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われます。火とは裁きの火であり、人を救う聖霊の火でもあります。
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」洗礼とは大水をかぶるような苦しみで、十字架です。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、対立して分かれるからである。 父は子と、母は娘と、しゅうとめは嫁と対立して分かれる。」過激でとてもついていけないと思いますが、イエス様の十字架を信じて救われる者とそうでない者との間には対立が起こるのです。
 
私たちの生き方が裁かれ、十字架の事実と聖霊の火によって根本から生き方が新たにされ、そこには古い生き方と新しい生き方の間に分裂・対立が起こる。抜かれるのは植えられるため、壊されるのは建てられるためなのです。
イエス様にあって一度地上の人間関係を根本からとらえなおす、入信の時だけでなく時々ここに立ちたいと思います。

 

2016年10月2日 「主人のいる生活」  
聖書:ルカによる福音書 12章35−48節   説教:
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

  聖書の根本的な主張の一つは、私たちは僕で主人である神様がいるということ、もう一つは主人であるキリストの再臨です。私たちには主人がいて、主人は再び私たちのところに来られ、私たちのしてきたことの黒白をつけられるということです。主は一度来られ、それがクリスマスです。もう一度来られます。それが再臨・終末です。現在の私たちはクリスマスと終末の間の生活なのです。
 
自分は生きているけれど生かされてもいる。これを知る人は多くいます。自分がもっと大きな力によって生かされている、信仰者はそれを知るだけではありません。その方がやがて必ず来られることも知っているのです。
  
ここから私たちはどう生きたらよいかを考えます。ある者は「時に応じて定めの食事を皆にさせる」忠実な思慮深い生き方をします。自分の生きることが周りの人も生かすのです。ある者は召使たちを打ちたたき、食べ、飲み、酔います。自分の生きることが周りの人を傷つけるのです。
この二つは生き方の違いは、主人の思いへの違いです。一方はいつ帰ってくるかもしれない主人を愛し畏れ、待機する生活です。一方の者には畏れがないのです。主人はまだ帰ってくるはずがないと思い込み、高をくくって自分が主人になったようにふるまうのです。
 
世の人は神様も再臨も裁きも恐れません。かまいません。私たちは神様と裁きを畏れます。神様に重荷もゆだねますが、キリストをお遣わし下さった神様にお応えすることにも細心の注意を払います。