説教 


2016年11月27日 「共に生きる」     
聖書:申命記 24章19−22節    説教:  
 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。
オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。
オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。

  「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。…ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」
 
何と心温まる行き届いた戒めでしょう。相互扶助で、共に生きるための戒めです。この通りのことがイスラエルでは行われていました。それがルツ記に記されています。夫と二人の息子を失った薄幸な姑ナオミを放っておけず、エルサレムまでついてきたルツは落ち穂を拾って生活しました。ルツの孝行を見て心よせるボアズに助けられ、のちに二人は結婚し、オベドが生まれます。オベドはダビデ王の祖父となりました。優しさと思いやりの心で一緒に生きる。ここから神様の祝福がにじみ出てきます。
 
社会福祉制度は「幸せの分かち合い」と言われています。自分の幸せを、そうでない者と分け合うのです。しかし、キリスト教の社会福祉は基本的に違います。今幸せだからそれを分かち合うのではなく、神様が自分を奴隷の家から救い出してくださったからなのです。
信仰者とは、自分が救い出されたことを知っている人です。自分の罪とおごりの奴隷の家から救いだされた者であることを知る人です。神様はこんな私たちを救い出してくださいました。ここから共に生きる者へと押し出されるのです。
 

2016年11月20日 「神様の愛の中にいる私」      
聖書:ルカによる福音書  13章10−17節     説教: 
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
 
ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
 
   この女は18年の屈んだままで、体を伸ばすことのできない気の毒な人でした。体の不自由、経済的負担、精神的圧迫、様々な重荷に打ちひしがれていたに違いありません。さらに又、18年の患いは、それをテコに彼女自身の人生を闇に閉じ込めたことでしょう。何のために生まれたのか生きる価値を疑い、人生を呪っていたかもしれません。そんな彼女をイエス様は解放されました。
 
ところがこの日が安息日だったために会堂司は言いました。「働くべき日は6日ある。その間に直してもらいなさい。安息日はいけない。」会堂司は癒しを否定したのではありません。安息日だからいけないというのです。18年患っていて命にかかわることではない、なぜもう一日待てないのかというのです。安息日を守るということでは理にかなった言葉です。
しかし、主は言われました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」偽善者とはポーズをとる人です。理屈や形だけの信仰、人の前でポーズをとり、神様の生ける御手を見失っている信仰です。
 
彼女は本来神様の祝福の中にいるはずのアブラハムの娘なのです。その彼女が患いのために自分を見失っている。イエス様によって神様が味方として共にいてくださること、その人生は神様の愛の中にあって神様の業が行われる舞台であること、女はこれに触れたのです。信仰を持つということは、このことに目が開かれることです。それで神様をたたえました。

2016年11月13日 「執り成しの中で生きる」     
聖書:ルカによる福音書  13章1−9節    説教: 
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
  ピラトは残忍な総督で、礼拝に来ていたガリラヤ人を殺し、その血を彼らが捧げる犠牲の血に混ぜる(事実はそうで無いのですが)事件が起こりました。これは人災です。水道を監視するためのシロアムの塔が倒れ18人が押し殺される出来事もありました。これは天災です
思わぬ不幸に出会いますと、私たちはなぜそうなったのかその原因を探ります。それが分かれば納得もあきらめもつきます。
その深い原因は罪の結果だと考えます。自分に不幸なことが起こるとどこが間違っていたかを考え、他人の場合には、自分にそれが起こらなくてよかったと思い、何が原因だったのかと詮索します。
勿論イエス様はその考えを否定されます。それは、神様の裁きを否定されたのではありません。不幸な目にあった人だけが特に罪深い人だという考えを否定されたのです。そして、悔い改めなければ、みんなも同様に滅びると警告されました。
 
旧約の預言者も神様の裁きを語り、血を吐く熱意で悔い改めを迫りました。間違ったことの上には人生は築けず、底抜けに感謝な人生も送れず、滅びる。ここまではイエス様も一緒です。その後が違うのです。実を結ばないイチジクの木(私たち)に対して園丁(イエス様)は必死で取り成すのです。「御主人様そのままにしてください(手だてを尽くしてみますから。と)」
悔い改めるとは、自分のした失敗のあの事このことを改めることでなく、この主の赦しと執り成しに身を置いて生きることです。

 

2016年11月6日 「あなたを守る方」  
聖書:詩編 121篇1−8節   説教:
【都に上る歌。】
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。、今も、そしてとこしえに
  「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこからくるのか。
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」
山々とは日本人が考える緑したたり紅葉の映える山々ではなく、岩がむき出しで草木の一本もない、獣と盗賊の潜む洞穴のある山々です。山々から目を上げて、天地の造り主の守りを告白します。

「どうか主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむこともなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方、…あなたの出で立つのも帰るのも主が見守っていてくださるように。」
 この巡礼の歌は交読文で、ここから歌う者が代わります。ここには理屈も議論もありません。ただ深い神様への信頼だけが歌われています。このように人生の巡礼を送れる者は何と幸いな事でしょう。

しかし、巡礼は守られていてもその先は死です。すると「見守る」とは何でしょう。私たちが無防備に眠っていても、良い羊飼いとしての神様が私たちを守っていてくださることを知ることです。(詩127:2)
「生きている時も死ぬ時も唯一つの慰めは、私たちが、身も魂も私たちのものではなく、真実の救い主のものである事です」(ハイデルベルク信仰問答抜粋)
「今も、そしてとこしえに」