説教 


2016年12月25日 「恵みと真理に満ちた方の誕生」     
聖書:ヨハネによる福音書 1章14−18節     説教:   
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
  ヨハネによる福音書1章1-18節はヨハネ福音書の序文で、これから地上の主イエスのご生涯を記すにあたってその本質は何かを記します。
1〜5節は天地の創造にも与かった神そのものでいたもう主イエスを「神の言」であること、6〜13節は、その言、をこの世は認めず受け入れなかったこと、14〜18節はモーセとの比較でイエス様が地上で何をなさろうとしたのかが記されています。
 
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 
クリスマスで誕生されたイエス様の本質の姿です。恵みとは与えられるはずのない者への好意であり、真理とは事柄の本質である正しさです。イエス様のうちにはこの二つが結びついています。惠は内側に真理をもっていなければ甘さですし、真理は惠の裏打ちがなければ冷酷です。私たちが生きる上ではこの二つ、恵と真理(愛と義といってもよいでしょう)を正しく作動させる必要があります。ここに私たちがどう生きたらいいのかが記されています。モーセは律法によって生きろと教えますが。
 
姦淫の場で捕らえられた女を前にファリサイ派の人々は「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法で命じています。あなたはどうお考えになりますか」とイエス様に詰め寄りました。愛に立つか義に立つかということです。
人々が激しく答え求めますので「あなたがたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさいと」と言われました。すると年寄りから始まって一人ひとり群衆は立ち去り、女だけになりました。イエス様は女にも「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい、もう罪を犯してはならない」と言葉を掛けられました。
イエス様はただ女を赦したのではありません。イエス様は自らが十字架で撃たれ、愛と義を確立されたのです。「十字架のもとぞいと安けし、神の義と愛のあえるところ」(74年版讃美歌261)なのです。
私たちは毎日の生活で、惠と真理、愛と義の関係で迷います、イエス様を仰ぎ、イエス様ならどうなさるかを問うて答えをいただきます。

2016年12月18日 「神の子となる資格」     
聖書:ヨハネによる福音書 1章6−13節     説教:  
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
  「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人々には神の子となる資格を与えた。」
 
新聞を読むのが怖いほどの闇がこの世を覆っています。銃声は鳴り止まず、凶悪な犯罪が日常化し、個人の生活にも様々な暗い影が忍び寄っています。そんな私たちのところに「言」としてのイエス様は来て下さいました。
しかし、人々は「言」を認めず、受け入れません。受け入れたくないのです。今は暗闇の中にいるのに、転向を求められるのが嫌なのです。苦しい変革よりも、今の安逸を好むのです。
ヘロデ王は、ユダヤ人の王として生まれたというイエス様の誕生の報に不安を覚え、エルサレムの住民も同様でした。自分が持っているものを取り去られると思っての不安です。人は取り込む事はしますが一度手に入れたもの、時間でもお金でも自由でも奪われることには断固拒否します。利用するのはいいですが、利用されるのは嫌なのです。結局自分がいつでも王様でいたいのです。
 
しかし光を受け入れる者もいます。受け入れるとは、キリストの生き方を自分の内に取り込むと言うことではありません。キリストに身を委ねることです。何故光に身を委ねられないのでしょうか。結局、自分を守るのは自分だという思い、不安はその裏返しなのです。自分以上に自分を配慮して下さっている方、その方に人生を委ねるのです。
信仰が、キリストを信じるというだけなら自分の気休めに過ぎません。神様も、信じる者に神の子となる資格を与えてそれを保証して下さっているのです。
 

2016年12月11日 「初めに言ありき」     
聖書:ヨハネによる福音書 1章1−5節    説教: 
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 
「初め」とは、時間的な初めも言いますが、起源、根本という意味での初めでもあります。
「言」とは、ロゴス(言葉)で、神様の御心を言い表す言葉でもありますが、法則、原理、根拠といった意味でもあります。世界の初め、根源には神が世を愛するという決意があるのです。
メシヤやダビデの子孫ともなじみのないギリシャ語を話す人々にイエス様を何とか紹介するため、また神様と同質で、神様そのものなのですが、それでも神様と区別されるイエス様を紹介するために言葉を選りすぐりこのように記します。
 
 このヨハネ福音書の書き出しは、創世記を思い出させます。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…」創世記がまとめられたのは、国が破れ、イスラエルの民がバビロンに捕虜として連れていかれた時でした。明日に少しの希望もない、混沌と闇が地を覆っていた時でした。どんなに混沌が覆っていてもその根源には神が世を愛するという決意があるのです。
ヨハネ福音書がまとめられたもの、90年代のドミチィアヌス帝が組織的にクリスチャンを迫害しだした時でした。暗闇が、今覆っているのです。
苦しさや痛み、悲しみがあっても、私たちは決して恐ろしい運命や宿命、闇のもとにあるとは思いません。世界を一番深いところで支配しているのは、命と光と愛のロゴス、イエス様だからです。


2016年12月4日 「人を救う神の決意」  
聖書:イザヤ書 40章1−8節   説教:
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
 
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。  
 
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。


  「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 
その昔エルサレムの住民は国が滅ぼされ、奴隷としてバビロンに連行され、地獄を見ました。人の営みはまことにはかないものです。砂漠から吹くシロッコ風(熱風)で草も花も枯れるように、バビロンの大軍の前に自分たちの何もかもが枯れたのです。国を失い奴隷とされ、明日に希望はありませんでした。
諸行は無常なのです。見える世界で常なるものは一つもありません。それは聖書の世界だけでなく、平家物語でも方丈記でもいろは歌でもこれを語ります。しかし聖書はそのあと「しかし神の言葉はとこしえに立つ」と宣言します。
「言葉」とは、聖書では、コミュニケーションの手段だけでなく、出来事を表し、神様決意、人を救うという神様の意思です。
 
阪神大震災は、人の世のはかなさを教え、おごる私たちに鉄槌を下し、それを忘れかけた私たちに東日本大震災は、もう一度それを思いださせました。草は枯れ、花はしぼみ、どんなに私たちの周囲が変わっても、地の底が割れるような経験の中にあっても、わたしたちを救うという神様の御心は不変なのです。
最後に決定的に神様はイエスを御送りくださってその赦しと愛をお示しくださいました。ここに立ってその歩みを整えるのです。