説教 


2017年1月29日 「叫びを聞く神」     
聖書:申命記 26章1−11節     説教:  
 あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。 あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。 祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。
わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。
  「わたしの先祖は、滅びゆく1アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。…わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き…わたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
 
「主に助けを求める」とは主に叫ぶことで、祈ることです。祈りは判定を求めるという意味もあります。その苦しさの中で「神様、正しく裁定してください」と叫ぶのです。
イスラエルの民が苦しさの中から神様に叫ぶと、神様はモーセを起こしエジプトから脱出させてくださいました。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」(詩91:15) 神様が叫びを聞いてくださる約束を聖書はいたるところで記しています。
祈りは、隠れたところで隠れた神に祈り、励まされ、整えられることでもありますが、神様に叫び求めることでもあります。子や親のことで、大事な会議を前にして、進退窮まったとき、寝床で祈り、歩いては祈り、走りながら祈ることもあるのです。そして神様はその叫びも聞いてくださいます。
 
私たちの叫びが聞かれる、それはこの歴史や私の人生が闇に包まれ、呪われたものではなく、最後は神様の祝福の中にあるということです。出エジプトでの叫びはそれをあらわし、最後はイエス様がはっきり示してくださいました。ですから神様に祈り、叫び続けるのです。

2017年1月22日 「どこを向いて生きているのか」      
聖書:ルカによる福音書 14章1−6節    説教: 
 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
彼らは、これに対して答えることができなかった。
  ある安息日に、イエス様はファリサイ派の議員の家に食事の招待を受けました。そこに水腫を患っていた人もおり、多分安息日にイエス様が何をなさるかその様子を探るためだったのでしょう。イエス様は「安息日でも自分の息子か牛が井戸に落ちたら引き上げない者がいるだろうか」と言われて水腫を患う人をいやして帰らせました。
 
安息日は元来、神様の創造と救いの業に由来し(出エジプト記20章、申命記5章)イスラエルの民は神様に選ばれた民としてそれを守りました。ところが「安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いてすべての業をせよ。7日目は主の安息であるからなんの業をもしてはならない」の戒めから、止めること、しないことを追求し、そのために微に入り細を穿つ戒めを作ってきました。そしていつの間にかファリサイ派の人々はそれに縛られ、人々にもそれを強要しました。
 
イエス様はどの戒めが一番大切ですかと問われ、「。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:32-40)と教えられました。
神様を愛することと隣人を愛することが並列してあるのではありません。神を愛することは隣人を愛する形をとり、隣人を愛することは神を愛することなのです。神様だけを見るのでなく、また人だけを見るのでもありません。神様の背後に隣人を見、隣人を愛する背後に神様への愛があるのです。
 

2017年1月15日 「御翼の下に入る」     
聖書:ルカによる福音書 13章31−35節    説教: 
 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
  ペレヤの王であるヘロデ・アンチパスはバプテスマのヨハネを殺害したのと同じようにイエス様を殺害しようと考えました。それを聞いたファリサイ派の人々はそれをイエス様に伝えますが、ファリサイ派の人々にもイエス様への思惑がありました。
イエス様は「あの狐に『私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。』と言えとおっしゃられエルサレムへ向かい、エルサレムへの心情を吐露されました。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わさ  れた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集める ように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」
 
エルサレムは特別に神様の恵みが注がれた町でした。しかし人々はその恵み(救い)を預言者を殺すなどして拒み続けたのでした。神様の与えようとする救いではなく、自分たちの求める救いが与えられないからです。彼らは自分が考える救い以外の救いを断固拒否し続けたのです。
イエス様は、ヘロデやパリサイ人の思惑に動かされることなく、神様の定めとお心にかなう救いを与えるためにエルサレムへ向かうのでした。イエス様の救いはあのことが解決し、このことが手に入る救いではありません。イエス様の十字架の赦しのゆえに神様が私の味方となってくださったことです(ローマ8:31−39)。そのために十字架で命を捧げ私たちを神様と結び付けてくださったのです。
 
なぜ自分の考える救いにこだわって、この主の救いを拒むのでしょう。「主の御名によって来る者に祝福あれ」と主をお迎えすればよいのに。自分のこだわりや思惑を捨てて、神様の用意してくださっている御翼の下に入ればよいのです。

 

2017年1月8日 「狭い戸口から入れ」     
聖書:ルカによる福音書 13章22−30節   説教: 
 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
  「狭い戸口から入るように努めなさい。事実入ろうとしても入れない人が多いのだから」
 
救いの戸口はだれに対しても開かれています。しかし狭いのです。その狭さは二つの意味からです。
「家の主人が立って戸を閉めてから」では、遅いのです。人生には戸が閉じられる「時」があります。いつでも時間があるようですが、手持ちの時間には限りがあり、しかもチャンスは幾度もありません。その時決断しなければ手に入れることができない「時」があるのです。
 
その時にどういう決断をするか。それは、その時までに主人(神様)とどういう関係に入っているかということです。「わたしはあなたと一緒に飲み食いしました、また、あなたは私たちの大通りで教えてくださいました」ということではだめなのです。
教えを聞く、これがくせ者です。人は心地よい言葉は聞いても耳障りの悪いことは聞かないのです。
聞いているようでも語られた通りに聞くのでなく、聞きたいように聞くのです。
上辺だけの交わりは、まさかの時にはその人を変えも救いもしないのです。
イエス様の救いの戸口は、この二つの関門のために狭いのです。
どんなにいいことを聞いても聞き置くだけでなく、聞いた言葉(神の愛)に身を委ね、従う。神様の愛に私も応えるのです。ここに救いがあり、救いとは宴会に象徴される神様との愛の交わりです。

2017年1月1日 「神の愛の支配の現実」  
聖書:ルカによる福音書 13章18−21節   説教:
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
また言われた。「神の国を何にたとえようか。
パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

  「神の国は何に似ているか。…からし種に似ている。人がそれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。…パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 
からし種もパン種も決して目立ちません。ところが、野菜では最大のものとなり、約2斗の粉をふくらませます。神の国の外側の発展と内側の活力を示すたとえです。
 
これは歴史の事実です。かつて世界の片隅で起こったイエス様の出来事が、今や全世界を覆い日本各地に教会が建てられています。今教勢の衰退が言われ、そういう面もありますが、それでも牧師が起こされ、伝道所が開設され、会堂が新築され続けています。
 
青春を奪われた従軍慰安婦の人たちは、日本で訴えた後千鳥ヶ淵の戦没者墓苑でこのような祈りをささげたそうです。
「主よ、あなたの心と霊を私たちに与えて平和をもたらす器として用いてください。絶望のあるところでは希望をまく者として、暗黒のあるところでは光をまく者として、悲しみのあるところでは喜びをまく者としてください。私たちを積極的に主の業に参与する者としてください。慰めてもらうことを求めることより他人を慰める者に、理解してもらうことを求めるよりむしろ他人を理解し、愛してもらうことを求めるより、他人を理解することを求める者にしてください。主の支配のもとでは真に受けることは与えることの於いてですから」(フランチェスコの祈り)
声高に自分の権利を主張し、相手を罵倒し、引きでレッテルを張る世界で、イエス様の教えてくださった赦しと愛を祈る
ここに私たちが受けたイエス様の教えの大きさと中身の豊かさの現実があります。