説教 


2017年2月26日 「確かな見通し」      
聖書:ルカによる福音書 14章25−35節    説教: 
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうかそうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
  「誰でも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てるのでなければ、わたしの弟子となることはできない」この言葉を目にすると私たちはだれでも、思わずギョッとします。「あなたがたのうちで自分の財産をことごとく捨てなければわたしの弟子となることはできない」という言葉も私たちをたじろがせます。イエス様に従うことは出家したり、財産の私有を拒否されること思われるからです。

イエス様の弟子になることは、人生に確かな見通しを持つことです。それは途中で家の建築を投げ出さないために初めにしっかり費用を計算しておくこと。攻めてくる2万人の敵にこちらの1万人をもって立ち向かえるかを冷静に判断することと同じなのです。家族やお金が私の人生を保証するものでは決してありません。
 31年前に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落しました。遺品の中のカメラに数時間前に撮った北海道の家族写真があり、その写真の笑顔に、人の世のはかなさに涙をそそられたと言われます。人生の確かさはなんでしょう。

 私たちのために命を差し出してくださった主が、「自分の命まで捨ててわたしのもとに来る」ことを求めておられるのです。私たちを本気で愛してくださり、あなたもそれに応え、その愛に生きよといわれるのです。財産や肉親に頼ることをやめよ、イエス様によって明らかにされた神様の愛の支配を信頼して生きよといわれるのです。

2017年2月19日 「そのとき癒された」      
聖書:マタイによる福音書 15章21−28節    説教:関 義朗 神学生  
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
 
   イエス様を主と信じ、信頼し、祈り続ける中で、ある時に祈りは叶えられます。カナンの女性が示した信仰はそのことを私たちに教えてくれます。
 
万葉集に「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」という歌があります。時計の針に示される時間ではなく、まさにこの歌に表現されている<時が満ちる>という<時>があります。私たちはこのような<時>を待つように求められています。
これには忍耐が必要です。祈りが聞き届けられる時を私たちには知ることが許されていません。神様が一番良い時に聞き届けられるのです。
 
女にすれば娘の病気ほどつらいものはなかったと思います。重い苦しみや病気にかかると、人はあきらめたり、開き直ったり、自分がこんなに苦しんでいるのだから人は助けてくれて当たり前と思ったりします。しかし、イエス様を信じ、娘を思う一心から願い続けるのです。イエス様の言葉に憤慨してののしるどころか一種のユーモアさえ交えて、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と詰め寄ります。娘はイエス様によって示された<時>に癒されました。
 
癒しの最も大切なことは「活き活きと生きることができるようになる」ということです。神様を信じ、そのことによって自分を認め、周りの人や自然と一緒に生きている人は癒しを受けた人だといえると思います。神様のみ旨は人間には計り知れないことを思わされます。
イエス様はわたしたちに奇跡を求める信仰ではなく、神様のご計画を全面的に受け入れ、神様に向かって歩み続ける信仰を求められるのです。

2017年2月12日 「晩餐会への招待」     
聖書:ルカによる福音書 14章15−24節   説教: 
食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

  神の国はしばしば晩餐会にたとえられます。そこに喜びと交わりがあり、一切が整えられたところに招かれ、もてなしを受ける晩餐会。神様がイエス様によって一切を整えて私たちを招き、神様との親しい交わりに入れ、喜びの中に生かす、まさに救いの象徴なのです。
 
この晩餐会にだれでも与かれるわけではありません。土地を買い、牛を買い、妻をめとるなどして招待を断る人がいます。これは人生の大事です。晩餐への招待も人生の大事も早くからわかっていたはずです。招待を断ったのは、結局自分の生活を優先するためです。自分の思惑で神様の提供してくださる救いに入るのが嫌なのです。
 
主人は招きが断られたと知ると、町の大通りや小道に入って、貧しい人。体の不自由な人など、晩餐会には無縁だと思われていた人たちを無理やりに引っぱってきます。
たとえば体の不自由な人の場合、土地を買うことも牛を買うこともできず、まして晩餐は無縁なことでした。それどころか体の不自由なことがテコになって人生を呪い、夢も希望も持てなかったのです。そんな彼に主人は晩餐会の喜びを味あわせずにはおかなかったのです。その主人こそ私たちの信じている神様です。
 
晩餐会への招待を断るのは自分の生活を乱されたくないだけではありません。失敗し、体を壊し、生活に陰りが見えてくると、教会に行きにくくなります。でもそこでこそ招待を受けるのです。

2017年2月5日 「神様の前での自己認識」  
聖書:ルカによる福音書 14章7−14節   説教:
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

  人は3つの自分を持っています。自分が考える自分。自分のことは自分が一番知ってわけではありません。家族・友人が思う自分。自分の気付かない一面を家族や友人は見ています。神様の目から見た自分もあるのです。
ファリサイ派の指導者の家に招かれ、招かれて当然と思っているお客は、自分がどこに座るか、虎視眈々と上席を狙っていました。私たちは露骨には上座を求めませんし、エチケットとして人に上座を勧めます。しかし人に上座を勧めながら、人のしぐさを鋭く観察し、値踏みします。見せかけの謙遜は上座を求めること同じなのです。人から栄誉を求めることを、露骨にするか控え目にするかの違いなのです。
自分は力があるけれど、奥ゆかしく人には見せないというのは、聖書の謙遜とは違います。自分の貧しさと神様の前では顔をあげられない罪深さを知っていること、さらにそれが赦されていることを知っている。この自己理解が聖書の謙遜なのです。

「宴会を催すときには…貧しい人、体の不自由な人…など(お返しできない人)を招きなさい」と語って、イエス様はこの謙遜を教えてくださいました。これは神様がイエス様によってしてくださったことです。能力や功績があるから招かれたのでなく、お返ししたくでもできないものが招かれたのです。人の目、人からの栄誉ではなく、神様のまなざしの中で生きる。ここにたくましい生き方と、にじみ出てくる信仰の喜びがあります。