説教 


2017年3月26日 「生かす言葉は近くにある」     
聖書:申命記 30章11−14節    説教: 
 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
  イスラエルの民が約束の地に入ってどのように生きたらよいかを語ったのが申命記です。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことが出来る」
モーセは何度も何度も、神を愛して生きる幸いと、神を愛さないことの混乱・呪いを語りました。
 
パウロはキリストがお示しくださった十字架の事実からモーセのこの言葉をとらえ直しました。神を愛して生きる幸いはその通りです。しかし愛せない者はどうなるのでしょうか。律法からすればその者は呪いの中にあります。しかしイエス様は、私が神を愛する以上に、私を神様が愛してくださっていると宣言します。
私たちがどう生きるかを天に上り、海のかなたにまで探しに行く必要がない。それどころか、神様の愛が天の上、底なしの淵(死者の行くところ)にまで及んでいるというのです。
良いことの出来る人はいいのです。出来ない人、自分で自分を持てあましている人の救いはどうなるのでしょうか。御言葉は近くにあり、神の愛は私を覆っているのです。
 
心の病にかかってそこから抜け出した聖公会の牧師が、病気の時の体験を本にしました。その中でこう言います。「暗く長いトンネルに入ってしまい。残酷な自己非難に攻め悩まされる日々。こういう病にかかった時キリスト教信仰はどこに入ってくるのか。およそ感情的な信仰や、自分を元気づけたり、自分の意志が助けてくれる信仰も役に立たない。自分の存在を超えたところから与えられるもの、どんな暗闇に置かれようともすべての良いものが砕かれたとしてもそれを超える神の愛、信仰はそこからくるし、それが信仰だ」

2017年3月19日 「父の発見」     
聖書:ルカによる福音書 15章11−24節    説教: 
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
口語訳18:ルカによる福音書/ 15章 18節
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

  父から遺産の生前贈与を受けた弟は、全部をお金にして、それを持って父の元を去りました。彼は放蕩に身をもち崩し、たまたま襲って飢饉のために窮地に陥りました。
人は自分の蒔いたものを刈り取ること、また自分の責任ではない外からの災難のために苦しみます。彼は二重の苦しみで進退窮まりました。ここで彼は本心に立ち返ったのです。我に返ったのです。自分がここで飢えて死ぬかもしれないけれど、自分には父がいたのだと。
 
彼は父の元に帰りました。父の元に帰って改めて父を発見しました。それは豚小屋で考えた父とは全く違う父でした。まだ遠く離れていたのに父は彼を認めて走り寄り、首を抱いて接吻し、最上の服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ、「彼は死んでいたのに生き返り、居なくなっていたのに見つかったのだから」と肥えた子牛を屠って祝宴を開いたのでした。
 
 彼は豚小屋で悔い改めたつもりでいました。しかし彼の悔い改めはずれています。彼は食べられなくなって父を思い出すのですが、父の所にあるパンを思い出したのです。詫びを入れることを考えますが、何もかもを浪費したことへの詫びです。無駄遣いしたことは結果であって、問題は父を裏切ったことであるのに気付いていないのです。
人は真に悔改めることはできません。父の元に帰って、受け入れられているのを知って、初めて自分の罪に気付くのです。悔改めて赦されるように思いますが、実は赦されていることによって真の悔改めができるのです。
 帰りを待ち、帰りを喜ぶ父が私たち神様です。


2017年3月12日 「捜されている者」     
聖書:ルカによる福音書 15章8−10節    説教: 
 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
  ルカ伝15章には3つのお話があります。それぞれが、失われたもの、それを必死で見つけ、見つけたことを喜ぶ有様を記しています。
3つの話はこのように考えたらよいでしょう。10枚のうちの1枚の銀貨をなくした女はそれを必死で探すのですが、銀貨にすればそれを知りません。失われていることすら知らないのです。
羊は違います。自分が失われていることを知っています。自分がいてはならないところのいることは知っていますが、ではどうしたらいいかが分かりません。
息子は失われていることを知り、今どうしたらいいかも知っています。しかし父がどれほど自分の帰りを待ちわびているかをしりません。私たちは捜され、尋ねられ、帰りを待たれているのです。
銀貨で言えば、銀貨自身に価値があるのです。持ち主の手から落ちて部屋の片隅に隠れ、泥のまみれていても価値があるのです。そのまま見失われてはならないのです。私は神様からそのように見出されました。

捜されることと悔改めることはどう関係するのでしょうか。女が失われた銀貨を見つけて喜ぶ。それは羊飼いがいなくなった羊を見つけることでも言えることですが、本来あるべきところにある。つまり、自分がよいと思うことをしていた者が、自分を捜している方がいることなど少しも考えなかった者が、捜され、本来の生き方に返されること、これが悔改めであり、信仰を持つことなのです。
私がその教会の特別礼拝に二度目に行ったとき、その婦人の隣にご主人が座っていました。礼拝が終わってこういう話を聞きました。イエス様を知らなかったときは自分の苦しみだけを見て人のせいにし、自分を正当化するだけだったけれど、イエス様を知り自分の尊さを知り、委ねる幸い、感謝が口をついて出るようになりました。どうぞ苦しんでいる人が早くイエス様をしりますようにと祈る者になり、気がついたら主人が礼拝で隣りにいるようになりました、と。
 

2017年3月5日 「失われたものを捜す方」  
聖書:ルカによる福音書 15章1−7節   説教:
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
 
そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
 
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
  徴税人(外国の手先になってあこぎに税を取る者)や罪人(神の教えに逆らい開き直っている者)が話を聞こうとしてイエス様に近寄って来るのを見ると、ファリサイ派の人々(律法を守り神に従おうと日々努力する人)や律法学者(律法を研究して人々に教える人)たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いました。
 
そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、…羊を見つけましたので一緒に喜んでくれ、と言うであろう。」
 
ファリサイ派の人々や律法学者たちは「罪人が一人でも滅びるなら天に大きな喜びがある」と言っていましたが、イエス様は「罪人が一人でも悔改めるなら、大きな喜びが天にある」と言われます。
私が自分を取り戻して生きることが、自分の喜びだけでなく羊飼いである神様の喜びなのです。
 
一体私たちはなぜ生きるのでしょうか。なぜ生きねばならないのでしょう。どう生きるかについてはいろいろな答えがあります。隣人を配慮して生きよ。小さなことも手を抜かずに生きよと。しかしなぜ生きなければならいかという問いには、何と答えたらよいのでしょうか。
その答えの一つが、この箇所です。捜す方がおられるのです。私たちは捜されているのです。自分で自分の人生に愛想を尽かしても、迷った後開き直っても、私を探し続けてくださる方がいるのです。信仰とはイエス様によって私が捜されていること、自分の尊さに目が開かれることです。
時々私たちは自分を見失います。洗礼を受けているのに神様が遠いと感じます。出会う悲しみや痛みに神様を見失い、迷います。まさにその時にこそ羊飼いの愛が燃え上がっているのですが