説教 


2017年4月30日 「どこで神様と出会うか」     
聖書: 申命記 32章1−14節    説教: 
 天よ、耳を傾けよ、わたしは語ろう。地よ、聞け、わたしの語る言葉を。
わたしの教えは雨のように降り注ぎ/わたしの言葉は露のように滴る。若草の上に降る小雨のように/青草の上に降り注ぐ夕立のように。 わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。 主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。 愚かで知恵のない民よ/これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方。
遠い昔の日々を思い起こし/代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。
いと高き神が国々に嗣業の土地を分け/人の子らを割りふられたとき/神の子らの数に従い/国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民/ヤコブが主に定められた嗣業。
主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。 鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように
ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった。
主はこれを丘陵の地に導き上り/野の作物で養い/岩から野蜜を/硬い岩から油を得させられた。 彼らは、牛の凝乳、羊の乳/雄羊の脂身/バシャンの雄牛と雄山羊/極上の小麦を与えられ/深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ。
  イスラエルの民が40年の荒野の旅の後、約束の国に入った後どのように生きたらよいかを律法をもう一度確認しているのが申命記です。今日の箇所はモーセが死を前にイスラエルに語った慰めに満ちた言葉ですが、イスラエルがバビロンに滅ぼされたという体験が背景にあった歌だろうとも言われています。
 
「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった」
かつて私たちが神様に見いだされること、こんな喜びはありません。それまで私たちは迷っていました。自分を神のようにし、人に負けまいと肩肘張って生きていました。しかし、ひとみのように守り、翼に乗せて運んでくださる主と出会い、不安から解放され、委ねることを知り、自我からも解放されたのです。
 
「エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨てて、救いの岩を侮った」
神を知り、神に知られる喜びを体験をしたのに、神様に従おうとすればするほど従いきれずに裏切り、お心に従おうとすればするほど自分の罪に気付かされるのです。これがわたしたちの問題です。ここで第二の神様との出会いが起こります。
そのうら切りを知っていて神様はわたしたちを見出してくださっていたのです。裏切らないに越したことはありませんし、裏切っていいのでもありません。しかし、裏切るまでの信仰ではなく、裏切っても、たとえ足蹴にするようなことをしても、決して捨てない神様の愛の確かさに立つことが信仰なのです。
信仰の確かさは私の内にあるのではなく、神様の御心の中にあるのです。
人生の荒れ野で神様に出合い、更に心の荒れ野で出会うのです
 

2017年4月23日 「父の発見−兄の場合」      
聖書: ルカによる福音書 15章11−32節    説教:  
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
  放蕩に身を持ち崩した弟は尾羽打ち枯らして帰宅しました。父はそんな弟を無条件で赦し、家に迎え入れ、帰還のお祝いをしました。
 
その日も畑で一日働き、家に帰ってそれを知った兄は怒ってしまいました。兄からすれば弟が零落したのは自業自得なのです。自分の蒔いたものを刈り取ったのです。
兄は弟の存在を認めず「あなたの息子」と呼び、弟に対する以上に父に対して怒っていました。兄にすればせめて弟との「あなたの息子と呼ばれる資格はあません」の言葉を最後まで言わせるべきだったのです。しかし父はそれすらしません。しかも弟のために小牛まで屠っているのです。自分が友人と遊ぶためには子ヤギ一匹もくれないのに。
自分勝手なことをしてそれが許されるなら弟のほうがいいではないか。自分のしてきたことはなんだったのかと考えたのかもしれません。兄は父との関係を労働と報酬、権利と義務の関係で考えていたのです。神様と私たちの関係(信仰)は労働と報酬、権利と義務の関係ではなく、愛と赦しと信頼の人格関係なのです。
 
兄は出来る人なのです。人から後ろ指を指されるようなことはしません。ただ自分はまじめにやっているという自負が、ある時ちょっとした人生の歯車がくるって落ちた弟への父の限りない愛を見えなくしているのです。失われていたのは弟だけではなく、兄も愛と赦しが見えず失われていたのです。父の愛と赦しは弟と同様兄にも注がれているのです。

 

2017年4月16日 「イースター・
          愛の事実と死の克服」
 
   
聖書: ルカによる福音書 24章13−35節     説教:  
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
  エルサレムから11キロほど離れたエマオに向かって二人の人がとぼとぼと歩いていました。二人は「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」のですが、イエス様が十字架につけられ、墓に葬られ、三日目に『イエスは生きておられる』と婦人たちから告げられますが、すこしも心を動かしません。暗い顔で歩いていると、イエス様が二人と一緒に歩かれました。
二人は、イエス様の十字架の死だけしか見えずそのあとの甦りにまで思いが及ばなかったのです。
 
イエス様は二人に旧約聖書を解き明かし「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだっ
たではないか」と説かれました。十字架のない甦りはなく、十字架には必ず甦りがあることを説かれました。十字架は人の罪のための犠牲で大きな愛の現れです。それで終わるならありがたい話ですが、悲しみがついて回ります。しかしそのイエス様が甦られたのです。天下晴れての救いです。
 
夕方イエス様は二人と同じ宿に泊まりました。夕食の時パンを取り賛美の祈りを唱え二人に渡すと二人はそれがかつてイエス様のしてくださったことと重なり、イエス様の甦りに目が開かれました。十字架の死だけしか見えずそのあとの甦りにまで思いが及ばなかった二人にイエス様が定めてくださった聖餐を行い、甦りによって与えられた死の先にある命をお示しくださいました。
 
復活はどう考えても理屈に合いませんし納得できるものではありません。大切なのは私がどう感じ、納得できるかではありません。私が実感・納得してそれを信じ、受け入れるというのではなく、私たちにはイエス様を証する聖書とイエス様が定めてくださった聖餐という事実があり、それを信じ、喜びを実感するのです。

 

2017年4月9日 「悲しみの道」     
聖書: ルカによる福音書 23章26−31節    説教: 
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
  キレネ人シモンにとってエルサレム巡礼は生涯に一度の夢だったかもしれません。エルサレムに着くと、イエスの十字架刑に付く行進に出会いました。ところがこともあろうに彼はイエス様の十字架を背負う羽目になりました。倒れ続けるイエスの姿を見て、ローマも兵隊の差し金によることですが、彼が代わって十字架を負うことになったのです。恥ずかしく、できたら消え入りたい思いに駆られたに違いありません。
 
しか、しその彼が20年後にはアンティオキア教会の長老となり(使徒13章)、30年後には彼の妻は、初代教会の最大の使徒パウロが自分の母と言わしめる家庭を築いていたのです(ローマ16:13)。
人生には二つの苦しみがあります。自分が蒔いたものを刈り取る苦しみと、自分が蒔いたものではない、まるで側杖を食ったとしか言いようのない苦しみです。後者はまさにシモンの苦しみです。
 
彼は、この理不尽に担わされた重荷をテコに自分の人生を見直し、神様に目が開かれたに違いありません。
耐えられない荷を決して担わせられない主が見えているでしょうか(Tコリント10:13)。この主を見てその荷を担い続ける時、20年後、30年後、思いもかけない神様の御業を見せていただけるのです。
 

2017年4月2日 「み言葉に生きる」  
聖書: 詩編 119編105−112節   説教:
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。
わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。
わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。
主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。
あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。


   「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」を今年度の教会標語といたしました。
大宮前教会は、2016年度、創立80周年を記念して「この街から愛されて80年、この街に
平安を祈って80年、これからも祈り続けます。」の歩みでした。2017年度の歩みもこの上に
活動を積み重ねてまいりますが、この街の平安を祈り続けるためには、まず自分が御言葉に生き、導かれ続けること必要です。
伝道者パウロはキリスト教徒を迫害するファリサイ派の学徒で、その彼がキリストを伝える伝道者になりました。彼と一緒に信仰者を迫害していたユダヤ人達との間でいつも争が起こり、収監され、彼は皇帝の裁判を受けるため船でローマに向かいました。そこで大嵐に遭い、一同は死を覚悟しましたが、「恐れるな、あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。航海しているすべての者は一人も失われることはない」との神様の声をパウロは皆に告げ、一同は救われました。(使徒27章)信仰者が信仰に立ち続ける時、本人も周りの者も救われるのです。
 私たちの歩みは上り坂、下り坂、まさかもあり、決して平たんなものではありません。志賀直哉の「暗夜行路」の小説のように、真っ暗な闇夜を失意の中で歩むような現実もあります。その時自分を導いてくれる光が問われます
船乗りにとって灯台の光や星の光が航海に欠かすことができません。私たちは、一日一日の道を照らし、人生を導く光・灯を持っていますから何と幸いで確実なことでしょう。