説教 


2017年5月28日 「人生の終わりの祝福」     
聖書:申命記 34章1−12節      説教:   
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。
モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。
イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
  「これがあなたの子孫に与えられるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」
 
モーセの生涯の最後はネボ山の西の端ピスガの頂から、眼下に約束の地を見ることでした。それをどんな思いで見たのでしょうか。そこに入ることはできなくても見ることができたのです。
40歳までエジプトのファラオの娘の子として帝王学を学び、80歳までミデアンの祭司の娘と結婚し、羊を追ってシナイの荒野の隅々まで知り尽くし、最後の40年120歳になって、イスラエルの民をエジプトから約束の束の地の入り口まで導くことができました。
それがどんなに困難なものだったことか、人々は問題が起こるとモーセに悪意に満ちた八つ当たりをしました。ぞっとするような皮肉を言い、裏切り、反逆し、モーセは何度煮え湯を飲まされたことでしょう。しかし、モーセはそのことと戦いません。もし戦っていたら約束の地には行けなかったでしょう。目先の問題と戦うのでなく、それは神様のみ手にゆだね、約束の地に行くことだけを見据えてイスラエルの民を導く歩みを続けたのです。
 
モーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、ピスガの頂から約束の国を見ることができました。自分のしてきたことがどこに繋がっているかを見ることができたのです。ここに自分歩んできた人生が虚しいものではなく人生の最後になっての祝福があります。
私たちも人生の最後の目標を見えて人生の一つひとつを積み重ねていきたいと思います。

2017年5月21日 「真に頼りになるもの」     
聖書:ルカによる福音書 16章14−18節     説教:  
 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
  不正な家令のたとえを聞いたパリサイ人はイエス様をあざ笑いました。イエス様の意図を理解せず、お金についても理解できなかったからです。
 
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」
神様の御心は、律法と預言者、そして最後はバプテスマのヨハネによって確認されました。「神を神とせよ」「心をつくし…思いを尽くして主なる神を愛せよ」これが人が生きる道であり、これができないところに人の混乱と争いがある。しかしイエス様は人が神を愛する以上に神が人を愛してくださっている(ルカ15章)とお教えくださり、その愛を信頼して生きよと言われました。
 
富はギリシャ語では[頼りになるもの」という意味の「マモン」という言葉です。お金に代表される富を持つことは心強いことです。このことから、富はいつの間にか神様と並び立つものとなりました。しかし、富は決して神様ではありませんし、人は神と富に仕えることは出来ません。
富は「大事」ではなく「小事」なのです。イエス様はその小事に忠実であれと言われます。富に縛られるのではなく富から自由になり、富に管理されるのでなく正しく管理せよと言われます。
それが出来るのは、神様の愛がわたしを覆っていることに目が開かれ、それに生きることによってです(参ルカ19章ザアカイの物語) 神様の愛の中で、富は管理するものととらえて、初めて人は富から自由になれます。伝えられたイエス様の愛の支配に生きていますか。

2017年5月14日 「どうしたらいいか」     
聖書:ルカによる福音書 16章1−13節    説教: 
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』  
管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
  
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 
  この管理人は不届きな人でした。主人の不在をいいことに不正を働き、それが発覚すると、主人に油100樽のある負債者に50樽と証文を書き返させ、麦100石の人には80石と書き換えさせます。主人に解雇されても負債を減額された人によって身の安全を図ったのでした。ところが主人はその家令を罰するのではなく、その利口なやりかたをほめたというのです。
 お盆は平らで、丸くもあります。「出たでた月が」という歌は、盆の丸さだけに焦点を当てています。
イエス様はここで悪に悪を重ねることを奨励したのではありません。この家令は必死で身の振り方を考えたのです。イエス様はそれが言いたいのです。そのことだけに焦点を当てたのです。
 
 おおよそその道で奥義を極めた人は、それなりの苦心のエピソードや工夫があります。下手投げで一世を風靡した杉浦投手は、学生時代、ボール半分を黒く塗って球の変化の工夫をしたと言われています。「この世の子らはその時代に対して利口なのです。」巧みに努力するのです。
 
このたとえは、15章の失われたものを見出す父の愛の話の後、語られました。神様の愛が知らされ、その愛の中で生きる者とされた弟子たちに対して語られました。信仰を得るために工夫するのではありません。その信仰を全うするために私たちは何をしたのでしょうか。どういう工夫をしているのでしょうか。それがないのでせっかく与えられた信仰が破船するのです



2017年5月7日 「心を広くしよう」  
聖書:サムエル記下 19章19−24節
    コリントの信徒への手紙U 6章11−13節
  説教:渡辺正男牧師
彼が渡し場を渡ったのは、王の目にかなうよう、渡るときに王家の人々を助けて川を渡らせるためであった。ゲラの子シムイは、王がヨルダン川を渡ろうとするとき、王の前にひれ伏し、 王に言った。「どうか、主君がわたしを有罪とお考えにならず、主君、王がエルサレムを出られた日にこの僕の犯した悪をお忘れください。心にお留めになりませんように。 わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、本日ヨセフの家のだれよりも早く主君、王をお迎えしようと下って参りました。」
ツェルヤの子アビシャイが答えた。「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」
だがダビデは言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。お前たちは今日わたしに敵対するつもりか。今日、イスラエル人が死刑にされてよいものだろうか。今日わたしがイスラエルの王であることを、わたし自身が知らないと思うのか。」
それからシムイに向かって、「お前を死刑にすることはない」と誓った。
 
 
コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。
わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。
子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

  ダビデは、シムイに向かって、「お前を死刑にすることはない」と誓った。
                 
都落ちして難を逃れていたダビデは、苦しい戦いに勝利しました。ダビデは、再び王として都エルサレムに帰って行きます。ヨルダン川の渡しの所まで来ると、大勢の人が迎えに来ています。シムイもその一人であります。
シムイは、都落ちして落ち延びて行くダビデに、石を投げつけ、口汚くののしった人物です。
そのシムイが、再びダビデの前に現れました。そして、「あの時に犯した悪を忘れてください」と詫びるのです。
多くの人が、その成り行きをじっと見守っています。ダビデの側近アビシャイが、「シムイは死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです」と強く主張すると、人々は息を詰めて、ダビデの言葉を待ちます。ダビデは、大きく息をしてから、アビシャイを叱りました。そして、シムイに向かって、「お前を罰しない」と誓ったのです。
このようにして、ダビデは大きな山をのり越えました。「シムイを罰しない」と公に宣言したことにより、ダビデは人心を掌握したのです。
 
この箇所を教会の集いで学んでいる時に、一人がこう語りました。「ダビデは、側近のアビシャイをきつく叱ったが、内心はどうだったでしょう。よくぞ言った、と思ったのではないか。この側近の言葉で、ダビデの心に余裕ができて、抗しがたい怒りの思いを治めることができたのだと思う」と。教会生活の長いその人の言葉が、今も心に残っています。
 
受けた冷たい仕打ちは忘れられませんね。折にふれて思い起こされ、悔しい思いが大きく膨らむことがあります。どう乗り越えるのでしょう。
わたしたちは、主イエスによって赦されている者です。ですから、赦し合うことを大切にしたい。でもそれは、容易なことではありませんね。せめて、友の援けを得て、憎しみの思いに負けないように、心を広くしたいと思うのです。
教会は、そのような者の共同体ではないでしょうか。