2017年6月25日 「ヨルダンを越える」 | ||
聖書:ヨシュア記 1章1−9節 | 説教: | |
主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」 |
ヨシュア記は偉大なモーセの亡き後を引き継いだヨシュアが、約束の地を征服して、12部族にそれを割り当て、民を定住させる内容です。 「わたしの僕、モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」 神様は民に土地の賦与を確認されました。約束は自動的にそれが与えられるのではなく、足の裏で踏みしめて自分のものとしていけと言われます。 人生はそのとおりです。入学、就職、結婚。ことを新しく始める時のことを考えたらよくわかります。その時は期待と共に不安がついてまわります。考え尽くして手を打っても不測の事態が起こるかもしれません。しかし、神様の約束と祝福があるのです。呪いと不運が待っているのではありません。ですから、神様のお心に聞きながら、強く雄々しく自分の足で踏みしめながら約束を自分のものとしていくのです。 しかし、実際に足を踏み入れると様々な問題が一気に吹き出てきます。問題が起こる時は一度に起るのです。今しなければならないことを一つひとつ片づけていく以外にありません。私のヨルダンを渡るのです。それを繰り返すとき、いつの間にか道は開けていきます。 |
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2017年6月18日 「からし種一粒の信仰」 | ||
聖書:ルカによる福音書 17章1−10節 | 説教: | |
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 |
罪の誘惑(人に失敗をもたらすもの、信仰を失わせるもの)のない人はありませんし、逆に人につまずきを与えない人もありません。また人の罪を7回も赦すことなど人には出来ない相談です。神様の栄光を表わし愛に生きる、言うのは簡単ですが実行はできません。 それで使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」とイエス様に訴え、イエス様は「もしあなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう」と言われました。 信仰は量ではなく質なのです。 では信仰の質「からし種一粒の信仰」とはなんでしょう。 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕す…僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。…あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」これは当時よく目にする主人と奴隷の光景でした。イエス様は、あなたは主人ではなく奴隷なのだと言われます。パウロも「主の僕パウロ」と好んで自己紹介をします。 私たちは信仰を信念と取り違えます。岩をも動かす一念や、どんなことが起こっても平静な心でいられるように心身を鍛錬する。それはそれで敬服しますが、それは聖書の信仰ではありません。私が小さくなり神様がわたしの中で大きくなること、それがからし種一粒の信仰です。 |
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2017年6月11日 「隣人が見えているか」 | ||
聖書:ルカによる福音書 16章19−31節 | 説教: | |
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 |
この金持ちは王侯貴族しか手に入らないアッキ貝で染めた紫の上着を着、贅沢なエジプト産の亜麻布を身につけて、遊び暮らしていました。彼の家の玄関には、全身できもので覆われたラザロがり横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。金持ちにとってパンは食べ物だけでなく、テーブを拭いて足もとに捨てるパンでもありました。栄養が偏っていたためか全身にできものができ、犬が来て彼をなめました。二人とも死に、ラザロはアブラハムのふところに迎えられ、金持ちは黄泉で苦しみました。 金持ちが悪人で、ラザロが善人ではありません。金持ちが不信仰でラザロが信仰深いのでもありません。金持ちは何も悪いことはしていません。ラザロをいじめたり、玄関から追い払ったのでもありません。彼は何もしないのです。 すぐ前の不正な家令の話は、この話と対になっています。不正な家令は悪に悪を重ねてまでして自分の救いを考えました。この金持ちは何もしないのです。何もしないことが問題なのです。 罪には、行って犯す罪と、行わない罪があるのです。 マザー・テレサは言いました。「今日の最大の難病は癩病でも、結核でもない。捨てられ、つまはじきにされ、もはや人を見ても 『この人が生きるのを』望まないという意識だ」と。私たちは隣人が見えているでしょうか。 「ラザロ」という名前は、エレアザル『神は助けられる』です。愛されたものだけが人を愛し、助けられた者だけが隣人へ同情(シンパシー)を持てます。神様から心底愛されていることに気付いていますか。 |
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2017年6月4日 「聖霊の執り成し」 | ||
聖書:ローマの信徒への手紙 8章18−30節 | 説教: | |
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 |
ペンテコステは信じる者の上に聖霊が下り、教会が誕生し、教会はその聖霊の働く場所となったことを覚える日です。 教会とかかわりのないところで働く霊は聖霊ではありません。また使徒言行録2章までの霊の働き深いところではつながっていますが2章以下に出てくる聖霊、その働きとは区別した方が分かりやすいと思います。聖霊の大きな働きの一つが以下の言葉です 「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」 私たちは弱いのです。肉体をもつため、病み、老い、その気質や性格で苦しみます。それで祈ります。しかし、本当に祈れるのでしょうか。祈っているつもりでも、わがままな独り言かもしれません。しかし祈れるうちはまだいいのです。問題があまりに大きいと祈ることさえできなくなります。 そんな私たちを“霊”もまたうめきながら、内側から励まし、私たちが祈って神様に結びつけるように執り成してくださいます。 私たちは孤独ではありません。事件を起こす人は自分の背後にある広がりが見えていません。家族や友人の励ましや助け、更に、実に聖霊の助けがあるのです。そこまで知っているでしょうか。 パウロは肉体に一つの刺が与えられていました。たぶん眼病だろうと言われています。それさえなければどんなに力強く、広範囲に伝道が出来たことでしょう。何度も何度もいやして下さるように神様に祈りますが、“霊”の導きの中で「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Uコリント12:9)というお言葉をいただき、信仰の秘儀に目が開かれたのでした。刺が無くなることではなく、あっても豊に生きられる秘訣です。 私たちの背後には、考えられない執り成しがあることに目が開かれたいと思います。 |
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