説教 


2017年7月30日 「恵みを記念する」     
聖書:ヨシュア記 4章1−14節    説教:
 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。
「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、 彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」
ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。 それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」
イスラエルの人々はヨシュアの命じたとおりにした。主がヨシュアに告げられたように、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、十二の石をヨルダン川の真ん中から拾い、それらを携えて行き、野営する場所に据えた。
ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある。
主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで川を渡った。 民が皆、渡り終わると、主の箱と祭司たちとは民の先頭に立った。 ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族は、モーセがかつて告げたとおり、隊伍を整え、他のイスラエルの人々の先に立ち、 約四万の武装した軍勢が主の前を進み、戦うためエリコの平野に向かって行った。
その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされたので、彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った。
  ヨシュアの使命は、イスラエルの民をその先祖の約束の地に導き入れ、部族ごとにそれを分配することでした。そのために先ずヨルダン川を渡ります。契約の箱を担ぐ祭司が川に一歩を踏み入れると、ヨルダン川は上流で塞き止められ、乾いた地を行くように人々は川を渡りました。それは、モーセのとき紅海を乾いた地を歩くように渡ったのと同じでした。その際人々は、部族ごとに川の底から石を一つずつ拾い上げ、ギルガルでその石を立てて記念としたのでした。
 
聖書では記念とすることをとても大切にしています。イスラエルがここまで導かれたことをギルガルに石を建てて記念としますが、最も有名な無形の記念は、奴隷のエジプトから導き出されたことを「過ぎ越しの祭」として毎年守り続けたことです。これはそのままイエス様の制定によって「聖餐」として受け継がれました。罪の奴隷から導き出され、神様の愛の支配に生きるためにイエス様が過ぎ越しの子羊となって私たちを神様と結び付けていくださいました。
 
記念は、他人にとってはつまらなく、なんの価値もないものです。しかし、本人にとってはそこに思い出がしみ付き、名誉と喜び、生きる勇気が与えられるかけがえのないものなのです。記念とはそういうものです。
イスラエルの民はどこから導き出され、どこへ行くのか。ヨルダン川を渡たることにも神様の恵みを見て記念としました。私たちの人生は約束された神様の祝福を自分のものとしていく歩みです。それを一つひとつ、そこここで確認して記念としてゆきます。「信仰生活を活き活きと保つ一番よい方法は、神様の恵みを具体的にしばしば思いおこすことだ」(スポルジョン)

 

2017年7月23日 「二つの祈り、二つの生き方」     
聖書:ルカによる福音書 18章9−14節     説教: 
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
  このファリサイ派の人はよく出来た人でした。貪欲でなく、不正を行わず、姦淫もしません。週に二度の断食と、全収入の十分一はきちんと捧げていました。
ところが落とし穴がありました。よくできるのが悪いのではありません。よく出来るので、人の問題が見えます。ここが勘所なのにあの人はそれを外しているとわかってしまい、人を見下してしまいます。更に自分は出来ているので自分の中にもある罪が見えなくなるのです。自分も赦していただかなければならない罪人であることを、いつの間にか忘れてしまうのです。
 
徴税人は周りの者も自分も、自分が赦しを必要としている罪人であることを知っていました。罪のゆえに神様から遠ざかるのではなく、罪に開き直るのでもなく、まさにそういう者を赦し受け入れて下さる神様の前に立ち、身を委ねたのです。自分が失敗して、もう神様の前には出られないと思ってしまう私たちの代表として、このように神様の前に出て、こう祈ったらよいのですよということを教えています。
 
人はよくできた時は、人の前にも神様の前に出られます。しかし現実に罪があり、罪の自覚があると、人の前にも神様の前にも出られません。罪のゆえに卑屈になり、自分みたいなものは神様の前に出る資格がないと思って心閉ざしてしまいます。
よいことをしたので神様の前に出ることも、悪いことをしたので神様の前に出られないことも、実は同じ問題なのです。自分が何をしたかが基準なのです。聖書の信仰は、自分が何をしたかではなく、善なる神様が私に何をしてくださったかを見続けることです。

2017年7月16日 「気を落とさずに祈る」      
聖書:ルカによる福音書 18章1−8節    説教:  
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
  神の愛の支配はイエス様の来臨によって既に始まっているが、完全な形で来るのは終末の時であり、その時が来るまで祈りの内に過ごすようにということを教えたのが今日の箇所です。
 
正義や憐みのためではなく、これ以上執拗に訴えてきて自分が悩まされないために寡婦の言い分を聞き届ける裁判官のたとえを語った後、「ました神は日夜叫び求める選民のために、正しい裁きをして下さらずに長い間そのままにしておかれるであろうか」とイエス様は語られ、失望せず常に祈れと教えられました。
 
私たち日本人はだれに祈るかがはっきりしていませんから、祈りを神頼みのように考え腰がひけてしまいます。それを裏打ちするように)「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」(菅原道真)という歌があります。誠意も道理にかなった行いをせずに祈りに走るのは卑怯な生き方だということでしょう。私たちは祈りをそのようにとらえておりません。祈りをかなえて下さろうと待ち受けている父なる神間に祈るのです。
祈ることは人間らしく生きることのしるしです。私たちは困ったことが起こると必死で祈ります。祈らなくなる時は、事柄があまりにもひどく、あきらめ、祈る気にもならない時です。
でもイエス様は「失望せずに祈れ」と言われます。どんなに苦しいことがあっても決して望みを失うな、それでも目標を捨てるなということです。祈りは聞かれるのです。祈りは人が人として生きえもるしるしなのです。ちなみにギリシャ語で「人間」は「アンスロ−ポス」と言いますが、それは「祈る存在」という意味です。動物は祈れないのです。
 

2017年7月9日 「メメント・モリ」     
聖書:ルカによる福音書 17章20−37節   説教: 
 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。 ロトの妻のことを思い出しなさい。 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。†
そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
  神の国はいつ来るのかとのパリサイ人の質問に、イエス様は答えられました。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 と。
ユダヤ人やファリサイ人の考えた神の国は、かつてのダビデ王の再来のようなまたたく間に敵を倒して問題を解決し、自分たちを幸せにしてくれる神の国の出現でした。
 
しかしイエス様の救いは違います。外側からの問題の解決ではなく、担わなければならない荷ならそれを担い、それを担う知恵や勇気が与えられてそれを担ってゆく、そういう内側から与えられる救いです。
私たちは神様の愛の支配の中にあるのです。私たちは今そこにいます。
 
現在の状態がいつまでも続くのではありません。やがてだれの目にもはっきりわかる仕方でイエス様は再び来られ、神の国は完成します。
完成の時なのですから、悪が裁かれ、涙が報われます。その時がいつかはわかりません。しかし今のままこの世界が続くのでは決してありません。やがて必ず私に死による終りや完成があるのと同じです。
メメント・モリ(汝、死ぬべきを知れ)。今から終わりを考えるのでなく、終わりから今の生き方を考える。これが聖書による生き方です。
 
2017年7月2日 「神をほめたたえる」  
聖書:ルカによる福音書 17章11−19節   説教:
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
  イエス様はエルサレムに上る途中、10人の重い皮膚病を患っている人々と出会われました。彼らを見たイエス様は、その病気を判定する「祭司のところに行って体を見せなさい」と言われ、彼らは祭司のところに行く途中癒されました。主の言葉に従って一歩を踏み出す時しるしは後からついて来るのです。
 
癒されたサマリヤ人は大声で神をほめたたえながらイエス様のところへ帰ってきました。イエス様は彼に「清められたのは10人ではなかったのか。神をほめたたえるために帰ってきたのはこの他国人のほかにいないのか」と残念がりました。
9人がイエス様に感謝しなかったとは思えません。自分の体が癒された事実に感激し感謝したに違いありません。感謝しないはずがないのです。
 
しかし、いくらその場で癒されたことを感謝しても、感謝は感謝だけなのです。悲しみが時を経て薄められていくよう、喜びや感謝も時の中で色あせていくのです。それが人間です。
イエス様に神様の業を見て、神様をほめたたえる。私の人生に神様が斬りこんで下さっているのを知って、神様をほめたたえる。自分は泣き、愚痴を言い、争うために生まれたのではなく、神様の祝福の内にある。これを知らされ、ここに生きる。神様としっかり結び着く、それで神様をほめたたえるのです。