説教 


2017年8月27日 「壁はくずれる」     
聖書:ヨシュア記 6章1−11節     説教: 
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。
そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。 あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」
ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、 次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。
ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。 彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。
 
  神様の約束は、自分の足で踏みしめることで自分のものとするのです。座していて与えられるものではありません。イスラエルの民がまず獲得しなければならない町が、城壁に囲まれた堅固なエリコでした。その町は、驚くべき仕方で手に入れることが出来ました。
 
そのためには準備がありました。第一は二人の斥候を遣わし、ラハブの手引きで町の様子を探ったことです。エリコの町の住民は恐れており、ラハブの口から「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と聴かされたことでした。(2章) 第二は気になっていても旅の途中では出来なかった神様との契約の印である割礼を行いました。(5章) 第三は神様の前に立ち祈ることです。(5章)ことを行う時には誰にでも不安があります。ヨシュアは一人で神の前に立ち、神様が共にいてくださることを確認し、思いもかけない町攻めの方法へと導かれました。
 
一日に一回、全員で一言もしゃべらずにエリコの町を廻り、七日目には7回廻って鬨の声を上げる。するとエリコの城壁は崩れたのでした。
どうして町の周りを廻わるのか、なぜ城壁が崩れたのか、それは分かりません。しかし、必要な準備をし、懸念を取り除き、活きて働き給う神を信じて一歩を踏み出せば、目の前の堅固な壁は崩れるのです。
信仰は信念や念力と違います。「神を信じなさい。誰でもこの山に向かい…海に飛び込めといい、自分の言うとおりになると信じるなら、そのとおりになる」(マルコ11:20-25)のです。

2017年8月20日 「見えるようになることです」     
聖書:ルカによる福音書 18章31−43節    説教: 
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
 
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

  いつもと違う街のにぎわいに、彼はイエス様がエリコに来たことを知りました。彼は「ナザレのイエスが通られると聞きますが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。ナザレのイエスに救い主イエスを見たのです。イエス様は彼を呼び「何をして欲しいのか」と訊ね、彼は間髪を入れず「見えるようになることです」と答えます。
 
この問答は奇妙です。盲人を前にイエス様はなぜ「何をしてほしいのか」と問われたのでしょうか。イエス様には彼の願いは判っていたはずです。しかし敢えて言葉でその願いを確認したのです。言葉にすることで心の思いがはっきりします(ローマ10:10)
 
「親の顔が見えないことが悲しいのではありません。それは声や肌の温もりでわかります。美しい景色は自分が見る以上に作家が描写してくれます。自分の顔が見られないことが悲しいのです。」とある盲人の方が言われました。人は自分をどう見ているのか。自分は美しいのか、醜いのか。自分が分からないのです。人は、人と人との出会いの中で、自分や、自分の立っているところがわかります。目の見えないことの不安は自分が立っているところが分からない不安なのです。
 
私たちは自分が見えているでしょうか。「見えるようにしてください」との叫びは私たちの叫びでもあるのです。「見えるようになること」はもっと深いところでは、神様との関係で自分がどのようなものであるかを知ることにあります。痛ましい手続きを踏んでイエス様は私たちを神様に結び付けてくださいました。その神様の愛が見えていますか。
 

2017年8月13日 「欠けているものが一つある」     
 聖書:ルカによる福音書 18章18−30節   説教: 
 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

  彼は若く、親からの遺産で大金持ち、最高法院の議員でもありました。その彼がイエス様に「どうしたら永遠の命を受けられましょうか」と謙遜に教えを受けに来たのです。自分の持っている物の上に更に良さを積み上げようとしたのでしょうか。
あるいはこうかもしれません。彼は大金持ちでした。お金は人を魅了します。お金は頼りになるものなのです。しかし彼はお金だけでは人生は頼りのならないことも薄薄知っています。お金だけではだめだということを一番知っているのはお金持ちなのです。お金を含めて、若さも社会的地位も、いつ失うかわかりません。今の幸せ保障してくれるものを求めてイエス様の所に来たのかもしれません。
 
イエス様は彼に「あなたにかけているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人に分け、わたしに従いなさい」と言われました。これが彼のアキレス腱だったからです。彼は富のゆえに人生を本当に支える神様が見えなくなっているのです。乳飲み子は何も持っていないので親(神様の愛)に生きる以外ないのと正反対です。
 
「売り払え」と言われていますが、イエス様はそれを私たちから奪いとるのではありません。私の財産、私の子ども…と何もかもを私の手の中に取り込むのではなく、神様の愛のみ手に一度委ねられないでしょうか。そうすれば幾倍にもなって、神様は私たちに託す形で返してくださるのです。
 

2017年8月6日 「子供のようになる」  
聖書:ルカによる福音書 18章15−17節   説教:
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」


  この箇所は、初代教会では好んで読まれ、説教される箇所でした。教会では説教を聞き心動かされ悔改めて洗礼を受けます。大人はそれが出来ますが、子供・乳飲み子にはそれが出来ません。今から2000年前は、10人のうち成長できるのは2・3人です。洗礼を受ける前に亡くなったらその子はどうなるか。小児洗礼は早い時期からありましたが、イエス様がその道をつけてくださったのです。
 
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
 
「神の国」とは特定の地域や、死んだ後に行く国でもなく「神様の支配」です。支配なのですから、神様の支配があったりなかったりするものではありません。いつも支配しているのです。すると「神の国に入る」とは、神様の愛の支配を信じ、その中に自分も置かれていることが分かっているかどうかです。
子供は素直で、一途に信頼し、疑うことを知りません。それは子供が無知で、無力だからです。ですからひたすら頼る以外のないのです。
 
このことと対になっているのが、金持ちの議員(18:18-30)の話です。彼は地位も富も、人からの評価も、何かもを持っていました。彼はそれに身を置いて、ついに神様の支配に身を置くことができなかったのです。
私たちは自分の無力に気付いているでしょうか。体のことひとつとってもすぐに病み、うろたえます。神様の愛の支配を子供のように信じたらよいのです。
 
「キリストが解決しておいてくれたのです。ただ彼の中に入ればいい。彼に連れられて行けばいい」(八木重吉)