説教 


2017年9月24日 「罪からの解放」     
聖書:ヨシュア記 7章1−15節    説教:  
イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。 ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、
ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」
そこで、民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。
アイの兵士は、城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した。民の心は挫け、水のようになった。 ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった。
ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。 主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。 カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」
主はヨシュアに言われた。「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。 立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである。 明日の朝、あなたたちは部族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた部族は、氏族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた氏族は、家族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた家族の男子は、一人ずつ進み出なさい。 滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」  
  難攻不落と思われたエリコを陥落させたイスラエルの民は、第二の町アイでは手痛い敗北をきしました。アイは小さな町だったため油断があったことも事実です。しかしそれ以上に罪が絡んでいました。アカンが神様の戒めに背いて奉納物を隠匿していたのです。アカンはそれを隠れて行い、人もそれに気付きませんでした。しかし神様は見ておられます(イザヤ29:15)。隠れてすることは、人を内側から輝かせますが、逆に腐敗もさせます。しかも罪は、その人だけでなく周りの者も腐敗させてゆきます。罪は断固処理されなければなりません。
 
罪の認識とその処理が問題です。世の人はそして法律も、表面に現れた行為だけを問題としますが、私たちは神様の前で認識します。罪を認めない不誠実は論外ですが、罪を認めるだけでは信仰者として半分しか生きていません。赦しにも生きるのです。「イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)
 
アイに破れたイスラエルには深刻な問題が残りました。戦いなのですから勝つことも敗れることもあるのです。ところがイスラエルは敗れること以上に敗れたことに捕われてしまったのです。これは罪の残す後遺症です。罪が処理されることは罪の後遺症も処理されなければなりません。成功しておごり、失敗し意気消沈する、これは同じことの裏表です。自分の視点からだけしか事柄を見ていないのです。
自分の中にある罪を知り、赦しに立ち、罪と過失の虜から解放されていますか。

 

2017年9月17日 「毎日をどう生きるか」     
聖書:ルカによる福音書 19章11−27節    説教: 
 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
  このイエス様のたとえは、ユダの王ヘロデの死後、その子ヘロデ・アケラオが王としての即位の承認を願ってローマに旅をし、その即位に反対するユダヤ人50人もローマに陳情した実話に基づいたものです。
 
主人は王位を得るために旅に出ますが、その際十人の僕に1ムナずつを渡して商売をするように命じました。これはイエス様と私たちの関係、また私たちの人生を表わしています。そして主人イエス様は王として帰ってきて、それぞれに報われます。
 
この話はマタイのタラントンの話に似ていますが、違いもあります。タラントンはそれぞれの能力に従って預けられますが、ムナは平等に一ムナずつ預けられます。私たちに平等に与えられているムナは、時間や命のともいえますが、神様の恵みともいえます。
ある人は与えられたムナを十倍にし、ある人はムナを五倍にしました。またある人は、主人を誤解して、それを死蔵します。自分は託されたムナを喜ぶ以上に失うことを恐れました。自分のことだけを考え、ムナを託してくれた主人の思いや一緒に生きる隣人が見えていないのです。賜物は活かして用いなければ、持っているものまで取り去られます。
商売とは自分が独り勝ちするものではありません。自分が生きるとともに、隣人も潤すことです。主人の期待は、托されたムナを用いて一緒に生きよと言われるのです。
 
イエス様がエルサレムに上り十字架にかかり、甦り、天に昇りやがて王として私たちのところに再びお帰りになる。そのとき王の即位に反対した者、ムナを活かして用いなかった者を裁かれます。
 

2017年9月10日 「安心して帰れる場所」     
聖書:申命記 7章6−8節
ルカによる福音書 22章31−34節 
  説教: 相愛教会 真壁巌牧師 
申命記 7章6−8節 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

ルカによる福音書 22章31−34節 
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

  ダヴィンチの絵で有名な最後の晩餐は、裏切りが予告された場面でもあります。そしてこの時、弟子たちは誰が裏切り者か、また誰が一番偉いかという妬みの議論をしました。おそらく弟子たちの多くは妬む相手としてペトロを意識したでしょう。しかし主イエスはこのペトロもサタンに負けると予告し、事実ペトロは主イエスが逮捕された時、三度も「イエスなど知らない」と言って否み、弟子の道から脱落しました。彼だけでなく後に教会の柱となる使徒全員が信仰を失い、完全に倒れたのです。


ではどうやって彼らは立ち直ったのか?それは主イエスが彼らの信仰がなくならないよう祈り抜かれたからです。裏切りの瞬間、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)のです。ペトロが主を見つめたのではなく、主がペトロを見つめ、目で語られた。「お前が立ち直れるよう祈る。」その眼差しに気づきペトロは外に出て激しく泣く(62節)のです。もちろんペトロだけでなく弟子たち皆が、自らの過ちを悔やみました。しかし彼ら以上に主が苦しまれ、痛みを負われ、祈り続けられたのです。彼らが立ち直るために。


教会は常に「この主イエスの祈りに支えられている自覚があるか?」と問われているように思います。教会は正しい人たちの集まりではありません。弱さをもった人間の集まる場所です。絶えず主イエスの祈りに取りすがるようにして立つのが教会なのです。だから自分の力で立ち帰ろうとする必要はありません。信仰が強くならなければ立ち帰れない場所ではないのです。貧弱である者に対する神の愛と主ご自身の祈りに支えられ、いつでも安心して帰れる場所。  そこに主のおられる教会があります。
 

2017年9月3日 「知られる喜び」  
聖書:ルカによる福音書 19章1−10節   説教:
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

  徴税人は、外国の支配者のために税を取り立て、しかも支配者の威を背景に決められた額以上に取り立て、やりたい放題で私腹を肥やしたのでした。
徴税人は偏見によって「罪人」として差別されたり、根は良い人なのに皆の視線が彼を追い詰めた、といった種類の人ではありません。たまたまそうなったり、ずるずるとそうなってしまったのでもありません。彼は故意に神様を捨てたのです。彼は隣人との交わりを捨てたのです。彼は開き直り何もかも分かったうえで徴税人になったのです。
皆は思っていました。「彼が苦しんだとしても(厚かましい彼が人の思惑を気にして悩むと言ったことなどないのですが)それは彼が、自分で蒔いたものを自分で刈り取っているだけのこと」「彼のような人が滅びることは結構なこと。むしろ彼のような人はいくなった方がよい」と。
 
イエス様は、ザアカイの家に入って客となったのです。「客となる」とは一緒に食事をする以上の親しい関係です。それによってイエス様は皆からザアカイの仲間、罪人の一人と見なされました。自分のところにまで来て、「あなたの生き方は間違っている、あなたも神様の祝福の中で生きるべきアブラハムの子なのだ」と言われ、彼は自分の尊さと皆と一緒に生きる新しい生き方に眼が開かれました。
 
「人が健全であるためには、誰かがあたたかく見守ることが必要です。見捨てられと感じると、健全であることができなくなります。」(ポール・トルニエ)
私を見守っている方が見えていますか。そして私も周りの人を見守っていますか。