説教 


2017年10月29日 「主の戦い」     
聖書: ヨシュア記 10章1−15節      説教:  
エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを占領し、滅ぼし尽くし、アイの町とその王をも、先のエリコとその王と同じように取り扱ったことを聞き、またギブオンの住民がイスラエルと和を結び、彼らのうちに住むことを許されたと聞くと、 非常に恐れた。ギブオンはアイよりも大きく、王をいただく都市ほどの大きな町であり、その上、そこの男たちは皆、勇士だったからである。
エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヘブロンの王ホハム、ヤルムトの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに人を遣わし、 「わたしのもとに上り、ギブオンを撃つのを助けていただきたい。彼らはヨシュアの率いるイスラエルの人々と和を結んだ」と伝えた。 アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちとその全軍勢は連合して攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。
ギブオンの人々はギルガルの陣営にいるヨシュアに人を遣わして、こう告げた。「あなたの僕から手を引かず、早く上って来て、わたしたちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人のすべての王たちがわたしたちに向かって集結しています。」
ヨシュアは兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣した。主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」 ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、ヨシュアはギブオンで敵に大打撃を与え、更に彼らを追ってベト・ホロンの坂道を登り、アゼカ、マケダまで彼らを追撃した。
彼らがイスラエルの前から敗走し、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主は天から大石を降らせた。それはアゼカまで続いたので、雹に打たれて死んだ者はイスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よとどまれギブオンの上に/月よとどまれアヤロンの谷に。」 日はとどまり/月は動きをやめた/民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。
主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。ヨシュアはその後、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に戻った。
  エリコとアイを攻略したイスラエルは、ギブオンの策略にはまって和平を結びました。それで怒ったのは連合してイスラエルを討とうとしていたカナン中央部の5人の王達でした。5人の王達は先ずギブオンを撃つことにしましたが、ギブオンはイスラエルに助けを求めました。ヨシュアはそれを聞くと直ぐに決断し、夜どうし駆けて戦場に赴き、一気に5人の王達に勝利したのでした。
5人の王達はまさかイスラエルがそんなに早く駆けつけるとは思ってもいなかったのでしょう。大きな石のような雹も降り、まるで一日が二日のように感じられる戦いでした。
 
イスラエルは自分たちのミスで5人の王と闘うことになりましたが、これは一度はしなければならない戦いでした。既に敵は連合軍を組織していたからです。避けられない苦しみへの妙薬は、逃げることではなく自分から迎え撃つことなのです。
 
イスラエルは奇策を用いて戦いますが、聖書は「主がイスラエルのために戦われた」と言います。戦いの節目節目でこれを忘れるなと確認しています。信仰とはそこに目が開かれることですし、聖書が言い続けているのはこのことです。
 
人生の胸突き八丁で、ここは神様に出ていただかなければなんともならないと思い、願う時、神様は本当に戦ってくださるのです。イギリスで奴隷解放をしたウイルバーホースは、「この戦いは主の戦いである」と言い続け、その偉業をなしとげたのでした。


 

2017年10月22日 「貸与された生活」      
 聖書:ルカによる福音書 20章9−19節     説教:  
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。
ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
  主人はブドウ園を整え、農夫たちに貸して長い旅に出ました。これは私たちの人生を表わしています。私たちの人生は主人である神様から貸し与えられているものなのです。これは聖書の根本的な主張です。(マタイ25章[タラントン]のたとえ、ルカ19章[ムナ[のたとえ)
主人は収穫の時に、分け前を出せと言います。主人のものを主人に返すこと、それを私″することは間違えで主人のものを主人に返すこと、これが人としての本当の生き方なのです。借りていることに目が開かれて返していく生活、それが信仰生活です。
しかし人は、一度手に入れたものは返しません。返したくないのです。農夫たちは借りたものを自分たちのものとするために、愛子を殺害してしまいます。
 
このたとえで一番大切なのは愛子が殺されることです。愛子が殺され、犠牲になったことが、人生が建てられる「隅のかしら石」となりました。主人は暴力に対して暴力で立ち向かいませんでした。そうしても良かったのですが、悪に悪で返すのでなく愛子の犠牲によって悪の連鎖を断たれたのです。
 
人が生きるためには、誰かがどこかで破れをつくろい、汚れを洗ってくれています。返さない私たちが人として生きるために。


2017年10月15日 「敗れの中に立たれる主」     
 聖書:ルカによる福音書 20章1−8節    説教: 
ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 
  宮清めをなさり、その後も引き続き宮で教えておられるイエス様に祭司長たちは詰め寄りました。「何の権威でこのようなことをしているのか」と。その答えによっては一気にイエス様を捕縛するつもりだったのでしょう。イエス様は逆に問いかけられました。「ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも人からのものだったか」と。
 
彼ら答えられません。天からだと言えば、それまでヨハネの働きを無視してきたことを指摘され、人からだと言えば民衆を敵に回すことになるからです。それで「わからない」と答えますが、わからないのではありません。わかっているのに答えないのです。ここに問題があります。これが人の深い問題なのです。
「今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。『主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。』 彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。』」(エレミヤ18:11−12)
罪とは盗んだり偽ったりすることもそうですが、それらは上辺のことであって本当はもっと深いところにあります。出来ないのではなくしたくないという生き方の問題です。生きる姿勢の問題です。預言者エレミヤは「かたくな」と言い(18:12)エゼキエルは「石の心」(11:19)と言います。預言者はこのこととの戦いでした。
 
この心を砕くのは愛です。言葉や理屈は通じませし、力は人をもっと意固地においやります。強情は人を傷つけ、その罪はイエス様を十字架につけますが、その強情に真ん中に人を救う愛の十字架が立っているのです。

2017年10月8日 「泣く者と共に泣く」     
聖書:ルカによる福音書 19章41−48節    説教: 
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
 
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
  ロバの子に乗ってエルサレムの見えるところまで来られると、イエス様は声を出してお泣きになりました。エルサレムの行く末を見てとられたからです
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
 
そして事実、紀元70年にエルサエムは、ローマによって徹底的に破壊されました。エルサレムは、エル・シャローム(平和の基礎、平和の所有)と呼ばれ、神様の愛と祝福が語り続けられた街でした。しかし神様の赦しと愛の道を捨て、力と憎しみの道を突き進んだからです。イエス様はこのことを歴史的に洞察されただけではありません。その滅びに涙されたのです。やがて泣くエルサレムの住民の涙を先取りして泣かれたのです。
 
信仰者とは、自分が涙する前に主が涙してくださっていることを知っている者です。私たちは自分の蒔いたものを刈り取って泣きます。目先の損得、自分の好き嫌いでことを選び、あとで大きな付けを払って泣きます。主はそんな私より先にそれを泣き、十字架で執り成してくださいました。
そこから押し出されて、私も「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」生活に導かれてゆきたいのです。自分の苦しみしか見えず相手の苦しみに気付かなかった私が視点を変えられたいのです。
 

2017年10月1日 「柔和なロバの子に乗る救い主」  
聖書:ルカによる福音書 19章28−40節   説教:
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
  イエス様は、十分な準備をしてロバの子に乗ってエルサレム入場されました。今を時めくイエス様の入場に人々は歓呼の声を上げて出迎えました。イエス様はご自分がメシヤであることをむしろ積極的に主張されたのです。
しかしその際、人が考えるような軍馬にまたがって力で並み居る敵を滅ぼすメシヤではなく「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って」(ゼカリヤ9:9)というお言葉の成就としてのメシヤ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28−29)としてのメシヤなのです。
 
柔和とは、単なる優しさではありません。モーセは「柔和なること、地の全ての人に勝っていた」とあります。罪を犯した民のために「もしあなたが彼らの罪を赦されますなら、しかしもしかなわなければ、どうぞ私の名を…消し去ってください」と身を賭して神様に執り成します。人の苦しみを他人事とは思えず一緒に担うところからくる優しさです。

私たちは生きている限り苦しみます。その際、どんな救いを願っているのでしょうか。いやな問題がアッと驚くように解決することでしょうか。自分の思いどおりに事が運ぶことでしょうか。一体そんな解決はこの世にあるでしょうか。ロバの子に乗ってこられたイエス様は十字架にかかり、私たちを神様に結び付けてくださいました。私たちにはこの救い主がいますので、私も、自分の負わなければならない荷を負っていくのです。苦しみが無くなることが救いではなく、苦しみを担い直せることが救いです。イエス様と一緒に。