説教 


 2017年11月26日 「勝ち取る祝福」     
 聖書:ヨシュア記 11章1−20節   説教: 
ハツォルの王ヤビンはこの事を聞くと、マドンの王ヨバブ、シムオンの王、アクシャフの王、 更には北部山地、キネレトの南のアラバ、シェフェラ、西方のドル台地の王たちに使いを送った。 彼らは、東西両カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモン山のふもと、ミツパの地に住むヒビ人であった。
彼らは全軍勢を率いて出動したが、それは浜辺の砂の数ほどの大軍となり、軍馬、戦車も非常に多かった。 王たちは皆連合し、イスラエルと戦おうと軍を進め、メロムの水場に共に陣を敷いた。
主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え。」
ヨシュアは全軍を率いてメロムの水場にいる敵を急襲した。 主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルはこれを撃ち、大シドンおよびミスレフォト・マイムまで、また東に向かってはミツパ平原まで追撃し、彼らを撃って一人も残さなかった。
ヨシュアは、彼らに対して主の告げたとおりにし、馬の足の筋を切り、戦車を焼き払った。
このとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを占領し、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは昔、これらの王国の盟主であったからである。 彼らは、剣をもってハツォルの全住民を撃ち、滅ぼし尽くして息ある者を一人も残さず、ハツォルを火で焼いた。ヨシュアは他の王の町々をすべて占領し、王たちを捕らえ、主の僕モーセが命じたように剣をもって彼らを撃ち、これを滅ぼし尽くしたが、 ヨシュアが焼き払ったのはハツォルだけで、その他の丘の上に建てられた町々をイスラエルは焼き払わなかった。 これらの町々の分捕り品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。 主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。
 
ヨシュアの占領地は、この地方全域である。すなわち、山地、ネゲブ全域、ゴシェンの全地域、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそれに続くシェフェラ、 すなわちセイル途上にあるハラク山から北はヘルモン山のふもとにあるレバノンの谷にあるバアル・ガドまでである。ヨシュアはこの地域の王たちを皆捕らえて打ち、処刑した。 ヨシュアとこれらすべての王たちとの戦いは長い年月にわたり、ギブオンに住むヒビ人以外にイスラエルの人々と和を結んだ町は一つもなかった。その他はすべて戦って獲得したのである。
彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。主は、モーセに命じたとおりに、彼らを滅ぼし去られた。
 
  ヨシュア記は約束の土地の取得と、12部族への配分の様子を記しています。
 
「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。
イスラエルは神様の祝福の中にあるのだから、自分の足でその祝福を自分のものとしていかなさい、これがヨシュア記の隠れたテーマであり、その意味で私たちの人生を象徴しています。
 
先ずエリコ、アイなど中央部分を手に入れ、次にエルサレム、へブロン、ヤルムトなど南部を手に入れ、今日の箇所はハツオル、シムオン、シェフェラなど北部の征服の記事です。
 
祝福の約束は座して待ち、自動的に舞い降りてくるのではありません。足の裏で踏みしめて自分のものとしていきます。それはヨシュア記のテーマの一つであり、また私たちにも当てはまります。     
例えば結婚が神様の選びと祝福の中にあるのですが、結ばれた二人もその選びを自ら選び取るのと同じです。ヨシュアの一行は踏ん張り、自分のものとしました。
 
その際、祝福を自分のものと勝ち取るために「彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼く」必要があります。当時の戦車は馬に挽かせた車で、力の象徴です。捨てて得られるものがあり、捨てなければ得られないものがあります。何もかもを獲得することは出来るはずもありません。何かを捨てなければ本当に大切なものは獲得できません。
 
妙な記述があります。恐ろしい連合軍と戦いますが、「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主である」(出エジプト7:3)と言います。この言葉に出会いますと、神様はひどい、むしろ敵の心を和らげてくれればいいではないかと思いますが、それは理窟です。
現実で敵がどんなに強く大きく見えても、その敵ですら神様の御手の中にあるのです。この世界を支配しているのは悪の力、運命や呪いではなく、神様の愛なのです。これを見ているのです。ですから諦めず、やけを起こさず、投げ出さず、自分の足で踏みしめて祝福を勝ち取っていくのです。
 

2017年11月19日 「人は神に生きる」     
聖書:ルカによる福音書 20章27−40節   説教: 
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 次男、 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 最後にその女も死にました。 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
 
  人にとって一番わかりにくいのは死です。死が確実に来ることは分かっていますがその先が分かりません。甦りについても知ってはいますが、全体としてはぼんやりしています。イエス様はサドカイ派の人々の質問に答えますが、復活について私たちに正確にお教えくださいました。
 
復活を否定するサドカイ派の人々が仮説を立てイエス様に尋ねました。「先生、モーセは書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死に…ました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。」
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、娶ることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」
地上にある私たちには罪が染みついています。その罪の結果の死があります。死があるので結婚して子供をもうける必要があります。復活に与かる者には罪がないので死もなく、結婚も出産も必要ありありません。神様によって清められ天使に等しいのです。「天使に等しいもの」とは、あの羽の生えたエンジェルではなく、神様によって生きる者、神様の懐にいる者ということです。
  
「死者が復活することは、モーセも、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいる。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
アブラハムはモーセよりはるか昔の人なのですから、正確には「アブラハムの神だった」と現れるべきなのに「アブラハムの神である」と現在形で現れています。
神様にあっては死んで無になったものではなく、今も神様にあって生きているのです。
 
「難しい道もありましょう。しかしここに確かな私にもできる道がある。救ってくださると信じわたしを投げ出します。
救われているのだからただありがたいと思えばいいのだ恩返しのつもりで他の人を少しも憎まなければいいのだ。」
                     八木重吉「神を呼ぼう」より
 

2017年11月12日 「皇帝のもの、神のもの」     
聖書:ルカによる福音書聖書 20章20−26節    説教: 
 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

  民衆をおそれてイエス様に手をかけられない律法学者たちは、どう答えても陥れられる問いをイエス様にしました。日ごろ悩んでいた問いをイエス様に問い、あわよくばローマの手でイエス様を葬ろうとしたのでしょう。イエス様はここで見事にその難問をはねのけたと言うことではなく、国家と信仰の関係を整理してお教えくださったのです。
イエス様は「カイザルに貢を納めてもよいでしょうか、いけないでしょうか」と問われました。「納めよ」と言えば、重税にあえぎローマからの独立を願っている民衆を敵に回し、「納めるな」と言えばローマを敵に回すことになります。イエス様は言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。
 
ユダヤはローマの支配下にありました。しかしユダヤはローマから恩恵も受けているのです。ローマの支配下で海から海賊はいなくなり、陸からは盗賊が駆逐されました。交通と治安と文化の恩恵があるのです。国から恩恵だけを受けて義務を拒否することはできない相談です。これはどんな時代、どんな国に住んでいても、信仰があってもなくてもしなければならない、人の義務なのです。
 
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とは、政治は政治、宗教は宗教ということではありません。この話がブドウ園と農夫のたとえの後に出ていることは大切なことです。一体私たちのものであっても神様のものでないものはあるでしょうか。たとえ皇帝のものであっても所詮神様から託されているにすぎません。(ローマ13:1-1)
私たちは天地の造り主、歴史の主である神様を畏れるので、歴史にそしてそこに住む地域に責任のあるかかわり方をするのです。(エレミヤ書29:1−14)
 

2017年11月5日 「生と死のはざまで」  
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章12−26節   説教:
兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
 
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。



  「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 けれども肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、…だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」
 
パウロがキリストを宣べ伝えるとユダヤ人との間で紛争がおこるため、パウロは牢屋に収監されました。そこで手紙を書きました。パウロの牢屋の中での心境や願いです。上記の言葉を読むと、私たちにはとてもついていけないと思いますが、ここにこれから先の命と地上での生き方があります。
 
「生きるはキリスト」とは、キリストとの神秘的な合一ということではなく、たとえば恋すると相手が自分の内で大きくなります。それと同じようにキリストが私の中で大きくなることです(ガラテヤ2:20)。
「死ぬことは利益」とは、愛する者と一緒にいる喜びです。「この世を去る」とは舟がもやい綱をといて次の場所に移動することです。愛する者とはいつでも一緒にいたいので、死ぬことは嬉しく得なことなのです。
生死は自分の手の中にありません。自分の願いの通りなるのではなく神様の手の中にあります。
地上で生き続けるとしたら、自分にとって都合がいいかどうかではなく、また自分の思い通りに生きることが生きがいではありません。私が生きることが、周りの者を生かすことに繋がっているかどうかです。牢屋の中でもできることがあります。友人・知人のために神様の祝福を祈ること。優しい言葉。感謝。素敵な笑顔。自分の生きることが周囲の者を感謝の内に生かすことに繋がっていますか。