説教 


2017年12月31日  神、我らと共にいますー
                過去を踏み直す方」
        
   
聖書:マタイによる福音書 2章13−23節   説教:  
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
 
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
  占星術の学者たちは、イエス様を礼拝するとヘロデ王のところへは寄らずに自分の国に帰りました。それを知ったヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺し、そこに深い悲しみが起りました。それは子を亡くしたラケルの悲しみ、かつてイスラエルがアッシリアによって奴隷とされた者の集合地ラマの叫びと同じです。
イエス様は危機一髪でエジプトに逃れ、そこに住み、ヘロデが亡くなった後も大事をとってマリヤの故郷、ナザレで成長されました。
マタイは、イエス様とモーセ、ヘロデとファラオかを対比し、かつてイスラエルで起こったラマの悲劇を重ね合わせています。イエス様がその苦しみの歴史を踏みなおしてくださっていることを記します。
 
マタイは「神は我らと共にいます」(マタイ1:23)の福音を記します。私たちが神様と共にいる以上に神様が私たちと共にいて下さり、今もそして世の終わりまで共にいて下さる神様(マタイ28:20)です。
しかしその私は、過去を引きずっています。良いことだけでなく辛く悲しい、ユダヤの過去と同じ、できればやりなおしたい歩みを引きずっています。これからの未来は切り開くことができますが、決して消えない過去の歩み。「共にいてくださる」イエス様は、私の以前の過去を踏み直してくださっているのです。自分の罪は赦されました。しかし迷惑をかけた人がいます。そんな過去もイエス様に委ねられるのです。

 

2017年12月24日 「救い主を拝む喜び」     
聖書:マタイによる福音書 2章1−12節    説教: 
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
  イエス様がヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、占星術の学者が東の方から来て言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と。
 
イエス様の誕生に対して二つの反応があります。
「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」
 ヘロデ王の不安はわかります。新しい王の誕生は自分の立場を脅かします。エルサレムの住民の不安は、新しい王の誕生による政変や流血を恐れたのかもしれませんが、実はエルサレムの住民も、私たちも皆小ヘロデなのです。一度手に入れたものは自由であれ権力であれ、地位や富も手離したくないのです。
 奪われるのではないかと言う不安は、神様を抜きに持とうとするからです。不安への最大の妙薬は、それを与えてくださった神様の愛のみ手にゆだねることなのです。
 
 ベツレヘムで救い主が誕生することを教えられた学者は星の導きによってイエス様に出会い拝します。
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。…彼らはひれ伏して幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」
 学者たちは大変な旅をしてイエス様を礼拝にきました。星の導きでイエス様に出会い、大きな喜びにあふれて宝物を献げたのでした。自分が宝物を得たのはこのためであり、宝物は私蔵するのではなく捧げるため、自分の人生もそのためにあったことをはっきりさせたのです。
  
不安は失うまいとするのでなくゆだねることで平安になり、喜びは獲得する以上に得たものを献げることで与えられます。
 

2017年12月17日 「神、我らと共にいます」     
聖書:マタイによる福音書 1章18−25節    説教: 
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 
  ヨセフにとっては青天の霹靂でした。婚約していたマリヤが身重となったのです。ヨセフにとっては身に覚えのないことで、何日も眠れぬ夜を過ごし、煩悶したに違いありません。これはマリヤとても同じです。
律法に従えば、公にしてその結果石打の刑になることですが、ヨセフにはそれは出来ません。しかしマリヤのことを赦すこともできず、母子の行く末を案じてお金を与えて密かに婚約を解消しようとしました。
 
「このように考えていると主の天使が表われて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずに妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。…『その名はインマヌエルと唱えられる』」
ある人は、これは神様がヨセフに頼んだ言葉だと言います。縁を切ってはいけない。妻として迎え、生まれてくる子を自分の子として迎えて欲しいと。ヨセフは、自分の思いはあってもそれに応えたのです。
 
二人は神様の言葉に従って、一緒になり、生まれた子をイエスと名付け、ヘロデの殺害の前にエジプトに下り、ベツレヘムに住みました。黙々と神様のお心に従って、それによって神様の業が起ったのです。ここに「イエス(神は救い)」と「インマヌエル(神は我々と共におられる)」とが結びつき、救いはなりました。
 
救いは神様がただ存在するだけでなく、共におられる。世の終わりまで共にいてくださることがはっきりすることです。その際、ただ共にいてくださるのではありません。罪を犯した者のためイエス様を代わりに罰することで赦し、それで神様が共にいてくださるのです。わたしが神様と共に人生を歩くことが信仰のように思いますが、神様の方が私たちと共に歩んでくださると決意してくださったのです。ここに聖書の徹底した救いがあります。

2017年12月10日 「闇を照らす光」     
聖書:マタイによる福音書 1章1−17節    説教: 
 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
  聖書の冒頭は系図から始まっています。系図は、系図を書くことでそれまでの歴史を表しますから、アブラハムから始まるイスラエルの歴史を表しています(参・歴代誌)。この系図は三つに区分され、7の倍数にこだわって14代ずつに分けられていますが、実数ではありません。
 
初めのアブラハムからダビデまでは、アブラハムから始まるイスラエルの民が、家族から民族に成長し、紆余曲折はあるものの国を造り上げて、ダビデがその頂点を極めるまでの様子が記され、創世記12章からサムエル記までの内容です。
二番目のダビデからエコンヤまでは、国が二つに分裂し、兄弟国の北イスラエル王国はアッシリヤに、南ユダヤ王国はバビロンに滅ぼされるまでの様子、列王記の内容が記されています。
三番目のエコンヤからヨセフまでは、歴史の表面から地下に潜った様子を表し、聖書にもほとんど記述がありません。
しかもこの系図には、普通なら決して明らかにしたくない4人の婦人の名が記されています。皆陰りのある婦人です。
この系図は、人類のそして私たちの人生です。栄枯盛衰とその間にちりばめられた罪と恥の数々。
 
「友が皆我より偉く見ゆる日よ 花を買い来て妻と親しむ」(石川啄木)という歌があります。いやなこと、自信を失ってしまう時、先が全く見えなくなってしまう時、日ごろ当たり前と思っていた伴侶に気付く。
イエス様がお生まれ下さったのはそんな私たちのためなのです。「神は我らと共におられる」イエス様が誕生され、この福音書の最後には「私は世の終わりまで共にいる」と復活されたイエス様のお約束が記されています。これがクリスマスのメッセージですし、ここに希望があります。
 

2017年12月3日 「キリストとは誰か」  
聖書:ルカによる福音書 20章41−44節   説教:
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

  一連のファリサイ派・サドカイ派の人々との論争が終わった後、今度はイエス様が皆に問われました。「どうして人々はキリストをダビデの子というのか。ダビデ自身が『主(神)はわが主(キリスト)にお仰せになった。…』と歌い(詩110篇)、キリストをわが主と呼んでいるのに」と。ダビデが自分の子孫を「わが主」と呼ぶのはなぜかと問われたのです。
 
確かにイエス様は、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリスト」として誕生し、人々からは「今来るダビデの子にホサナ」と歓迎されてエルサレムに入城されました。人々は敵を倒し、問題を解決し、栄光に導いてくれる救い主を考えているのではないでしょうか。人々は苦難に満ちたイスラエルの歴史の中で並みいる敵を倒し、国を発展に導いたダビデの子孫に、救い主(キリスト)を重ねたのでしょう。 
 
軍人、琴の奏者、詩人としてのダビデは偉大な人でした。しかし彼自身は絶えず家庭の問題で悩んでおり、王様の家庭の争いはたちまち国の争いになりました。欠けの多い自分の子孫が救い主であるなどは考えもしなかったに違いありません。ダビデ自身が「わが主」と呼び、膝をかがめるキリストを求めていたのです。
 
体制、環境の問題はあります。その解決のために努力することは同然です。しかし周りが変化しても、罪と罪の呼び起こす問題はついて回ります。
神様との関係が変わり、私が変わること。このためイエス様は十字架にかかり、甦らされました。この方が私のキリストです。
 
イエス様の問いには、十字架と復活を目撃したペトロが使徒言行録2章36節で答えています。