説教 


2018年1月28日 「私と私の家は主に仕えます」      
聖書:ヨシュア記 24章14−38節     説教:  
あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。 主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
 
ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
 
民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、 「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
 
民はヨシュアに答えた。「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」
その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法とを定めた。ヨシュアは、これらの言葉を神の教えの書に記し、次いで、大きな石を取り、主の聖所にあるテレビンの木のもとに立て、 民全員に告げた。「見よ、この石がわたしたちに対して証拠となる。この石は、わたしたちに語られた主の仰せをことごとく聞いているからである。この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる。」
ヨシュアはこうして、民をそれぞれの嗣業の土地に送り出した。
これらのことの後、主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・セラに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。
  「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって…主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというなら…仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」
 
死を目前にしたヨシュアは、全住民をシケムに集めて告げました。ヨシュアの遺言です。百戦錬磨の勇者なので、残るイスラエルに言いたいことは幾らでもあったことでしょう。しかし最後に言いたい一言は「主を畏れ、真心を込め真実をもって…主に仕えなさい」ということなのです。
信仰は教えることも譲ることもできません。その人が自分で決断して神様に従う以外ないのです。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言し、あなたがたはどうするかと決断を迫ります。
 
生きていく上で、辛いこと、迷いそうなこと、つぶされそうな時もあります。しかし、この世界と私の人生を、愛をもって支配して下さっている真実の主がいらっしゃる。この主にお従いして、道を拓いていただき、整えられていくのです。ここに立ち続けるのです。
私が真実の主の前に立ち、救いと喜びに生きるとき、救いは私だけでなく私の家族にも及びます。救いを私の救いだけにとどめるのでなく、私の救いが家族の救いに繋げるのです。家族は私の言うことには耳を傾けませんが、することは見ています。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒言行録16:31)


 

2018年1月21日 「目を覚まして祈りなさい」     
聖書:ルカによる福音書 21章20−38節    説教: 
 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
 
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
 
それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
 
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
 
それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
  イエス様の終末(キリストの再臨)の預言はまだ続きます。
エルサレムの町が徹底的に破壊されます。破壊に伴う目を覆うような悲劇がそこにあります。エルサレムの破壊はこの世の破壊の象徴です。
天変地異があり、人の子が来臨します。この世はいつまでも続くのではなく終わりがあります。終わり(テロス)は終わりでもありますが、目的、目標でもあります。聖書の終わりは、終焉としての終わりではなく、神様の目標、創造の完成としての終わりです。悪はのさばりますが、それで終わるのではなく,一発逆転の「人の子」の来臨(ダニエル書7:13−14)があるのです。
いちじくの葉に時の変化を見るように、この世の様々な事象に神の時の変化を見ること、見るべきものにしっかり焦点を合わせて生きること、これが私たち信仰者の毎日です。
 
私たちの信じるイエス様は、貧しい者、弱い者の友、弟子の足を洗い、ついに私たちのために十字架に命を捧げてくださったお方です。このような「人の子」としてのイエス様。
しかしまたそのイエス様は、「人の子」として、御国の権威を持って再び来られ、生けるものと死ねる者とを裁き給うお方でもあります。これを欠いた信仰はいかにも薄っぺらで脆弱です。
 
「われ世にある間になせる業を、包まず御前に述べうべきか」「ひそめる思いも主知りませば、あらわに受くべし、その報いを」「良し悪しもれなく裁かるれば、つつしみ祈りてわが世おくらん」「死の時いつともわれ知らねば、いざとく御神とやわらがまし」  讃美歌(54年版)175番

 

2018年1月14日 「終わりを前にして」     
聖書:ルカによる福音書 21章5−19節    説教: 
ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
 
  威容を誇る神殿を前に」イエス様は言われました。「その石一つでも崩されずに他の石の上に残ることもなくなる日が来るであろう」イエス様は、神殿崩壊の預言ののち、この世の終わり、終末について語ります。
 
わたしの人生に終わりがあるように、この世はいつまでも続くのではありません。終わりがあります。
自然科学者も社会科学者も世の終わりは言います。人間の抑制を欠いた欲望の追及。人口爆発と食糧の危機。環境破壊と核の脅威。国家間の戦争と国内での武力紛争。いつ終わりが来ても不思議ではありません。
しかし聖書の終末は違います。文明の破たんや物理的終焉ではなく、神様の創造の完成としての終わりです。その時は完成なのですから、悪が罰せられ、あの涙、この苦しみの意味が判明しだれの目にもイエス様が救い主であることが分かる時なのです。
 戦争と混乱、大地震、疫病、飢饉などはその前兆ですが、それは終末ではありません。その未曾有な出来事、それは私たちが何を信じているのか私が試される時です。
 
その時はまた証の時でもあります。語るべきことはその時に授けられますから、先取りして心配しないでもいいのです。
 イエス様の愛の福音に立ち続ける者は忍耐し、忍耐する者は救われます。本人が救われ、周りの者が救われます。その時まで終わりは来ないのです。
 

2018年1月7日 「神の前、人の前」  
聖書:ルカによる福音書 20章45節−21章4節   説教:
民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」


  神殿で律法学者やファリサイ派の人々と論争した後、イエス様は弟子たちに言いました。 律法学者が長い衣を着て歩いて人々から挨拶を受けている姿、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金している姿を見たからです。
イエス様は律法学者を叱責し、レプトン銅貨2枚を捧げた寡婦を称賛されました。
 
律法学者は、(旧約)聖書を研究し、それを分かりやすく人々に解き明かす人です。彼らは人々から尊敬されていましたので、いつの間にか神様を見るよりも人の評価を気にしていたのです。
イエス様は「隠れたところで隠れたことを見ておられる」神様を畏れる幸いを教えておられます。施し、祈り、断食は、その善行が人に知られて評価されると、評価されることが報いだというのです。しかし神様しか知らない善行は、その人の内にいつまでもホコホコと喜びをもたらします。
イエス様は律法学者の偽善を叱責されますが、それは人の目を気にして信仰の喜びを知らない人への嘆きでもあり、神様の前での喜びを教えるためでした。
 
寡婦は神様の前で生きることが分かっていました。身寄りのない、行く先に不安を覚える寡婦にとって、お金は何より大切でしょう。しかし彼女は、心配でたまらないこと、不安や切なさを、自分の手に残しておきたいレプトン銅貨二枚とともに献金という仕方で神様に捧げたのです。責任を持って顧みてくださる神様(Tペテロ5:7)に委ねて、自由と平安の中に生きたのです。