説教 


2018年2月25日 「破れを知る者」     
聖書:ルカによる福音書 22章31ー34節      
 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
  イエス様はペトロの裏切りを予告しました。それを聞いたペトロは気分を害し、でも胸を張って言ったかもしれません。「主よ、わたしは獄にもまた死に至るまでもあなたと一緒に行く覚悟です」
イエス様は言われました。「ペトロ、あなたに言っておく。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう」
そしてイエス様の予告通りのことが起こりました。女中の言葉に足元をすくわれ、ペトロはイエス様との関係を三度も否定し、その時一番鶏が鳴いたのでした。ペトロは自分のふがいなさを思ってでしょうか、門の外に出て激しく泣き続けたのでした。
 
信仰は自信ではありません。自信に裏付けられ、失敗を経験しない信仰はもろいのです。それは一度砕かれる必要があります。しかしその失敗と弱さは知られているのです。失敗と弱さを赦し、受け入れてくださっている主に生きるのです。そして新たにお従いするのです。
 
「悲しみを通らない喜びは、やがて悲しみに終わるい。しかし悲しみを通った喜びは、再び悲しみに変わることはない。病むまでの健康ではなく、病みぬいた健康。失敗するまでの成功ではなく、失敗を克服した成功。汚れるまでの清さではなく、汚れから立ち上がる清さを私たちは主から求めよう。主は喜んで世の罪を担い、来る霜を受け、ひとたび黄泉に下り、そこから甦られたのだから」(婦人更生施設「かにた婦人の村」園長深津文雄)

2018年2月18日 「神の国の原理」     
聖書:ルカによる福音書 22章24ー30節    説教: 
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
 
あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
  裏切りの警告を聞いた弟子たちは、そのことがきっかけとなっていつの間にか弟子たちの中で誰が一番偉いかという議論をしてしまいました。きっかけはどうであっても、行き着くところは自分が他のひとよりも上か下か、どちらが偉いかということであり、これはだれの内にもある思いです。
「そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
 
人生には二つ評価の基準があります。その一つは、人がいかに多くを得たかで評価される基準です。努力して博学な知識を持ち、事業を起こして財を成し、権力を手に入れることでその人の人生は評価されます。
もう一つはその反対でいかに多くを人に与えたかで評価される基準です。マザー・テレサはいかに多くを与え、人に仕えたかでノーベル平和賞を与えられました。
 
人は自然の性向から得ることを求めます。与えたり仕えるのは嫌なのです。しかしイエス様は仕えることが神の国の原理だと言われます。「自分が、自分が」と言う私たちのために、十字架によって私たちに仕えてくださいました。
上に立つ人は、上に立つことで人に仕えるのです。問題は上に立つかどうかではなく、人に仕える姿勢がるかどうかです。

2018年2月11日 「過越しの食事」     
聖書:ルカによる福音書 22章7ー23節    説教: 
過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
 
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
  イエス様を取り巻く雰囲気は逼迫しています。ユダが裏切り、何が起こってもおかしくありません。イエス様は何としても弟子たちと過越しの食事をすることを切望し、周到な準備をなさいました。これから自分のしようとするこの意味を弟子たちにしっかり教え、それを記念とするためです。
 
イエス様な生命の全てを人にお与えくださいました。これはだれもが認めることです。それを口先で言うのではありません。
目の前にあるパンを取り上げ、それを裂いて言われました。「これはあなた方のために与えるわたしの体である」 葡萄酒を手にして同じように言われました。「これはあなた方のために流すわたしの血で立てられた新しい契約である」と。
かつてイスラエルの民は神様と契約を結びました(出エジプト24章)。律法を守れば神様はイスラエルの民を祝福し、守らなければ民は呪われるという契約です。しかしイスラエルの民は律法を守れませんでした。エレミヤは、神様とイスラエルが、その罪を赦して思わないという新しい契約を結ぶ日が来ると予言しました。イエス様が血を流し、呪いとなって神様と私たちを和解させ、神様に結び付けてくださいました。
 
イエス様のご生涯はこのためでしたし、十字架はそのためだったのです。これを弟子たちにしっかり教え、記念としたのでした。記念は他人にとっては意味のないものでも、当人にとってはかけがえのない思い出と誇りに満ちたものです。
この後、世々の教会はこの聖餐を守り続けています。いつもイエス様のしてくださったことをこの身に覚えて、和解された神様との生活を喜ぶためです。

 

2018年2月4日 「裏切り」  
聖書:ルカによる福音書 22章1ー6節   説教:
さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
 
ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。


  過越しの祭りの二日前、ユダはイエス様を裏切りました。祭司長、神殿守衛長にイエス様を売り渡し、銀貨30枚を受け取りました。なぜイエス様を裏切ったのか、これは初代教会の大問題であり、私たちにとっても同様です。
 
いくつかの理由が考えられます。ヨハネ福音書が言うように欲に目がくらんだのかも知れません。イエス様を窮地に追いやって、立ち上がってもらいたいために裏切ったという説もあります。
 
ユダにはユダの思いや正義感がありました。貧しい人を救済すること、ローマの理不尽への怒りだったかもしれません。ところがイエス様は黙々と十字架への道を進みます。自分が罪の贖いとなって人と神様を結びつける、これが人の根本的な救いだからです。ユダは自分の思いとイエス様の思いが相容れないことを知り、イエス様を捨てたのです。信仰は自分の思いや願いをイエス様に投影することではなく、イエス様の与えてくださる救いを受け入れることです。これがユダの裏切りの根本にある問題です。
 
 そのユダを選んだのはイエス様でした。ユダはイエス様が夜を徹して祈られて選ばれました。ユダはこれを重いこととして受け止めなかったのでしょうか。人はみな裏切る可能性を持っています。ロボットではないのです。イエス様の選びを自分もそれを選びとっていくのです。ユダは自分の思いを決して曲げずに押し通しました。それをサタンが用います。
ペトロも「サタンはあなたを小麦のようにふるいにかけることを願って許された」のですが、そしてイエス様を裏切るのですが、ペトロは自分が祈られていたのを知っていたのです。