説教 


2018年3月25日 「その打たれた傷により」     
聖書:ルカによる福音書 22章63節−71節    説教:  
 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
 
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
  祭司長や民の議会は策を弄してイエス様を捕縛し、裁判をします。不法な夜の裁判です。形の上では予審でしょう。
予審と翌朝の本裁判の合間に、監視をしていた人たちはイエス様をこぶしでたたき、顔に唾をかけ、目隠しをして「打ったのはだれか」と愚弄しました。この時ペトロは意地悪な女中によってイエス様を裏切ってしまいます。
 
夜明けとともに開かれた裁判で、祭司長たちはイエス様を追い詰めました。彼らはイエス様の言われる「メシヤ」「人の子」(神様の支配を実現される方)、「神の子」を、イエス様の言い分も聞かずに自分たちの持っている尺度で断罪し、イエス様を死刑にすることにしました。
 
このイエス様の御姿は、イザヤの苦難の僕の預言の通りです。
「わたしを打つものにわたしの背を任せ、私のひげを抜く者にわたしのほほを任せ、恥と唾を避けるために顔を隠さなかった」(イザヤ50:6)
「彼は暴虐な裁きによって取り去られた。その代の人のうち誰が思ったであろうか。彼はわが民のとがのためにうたれて、生ける者の地から断たれたのだと」(イザヤ53:8)
 
「悪いことをした人が苦しみを刈り取ることを、正しいものが当然なことと見ているだけでは、世の中はよくなりません。正しい者がそうでない者のために苦しまなければ皆の救いはないのです。」(恵泉女学園 河井道) イエス様のしてくださったのはこのことです。 

2018年3月18日 「闇の支配の時」     
聖書:ルカによる福音書 22章47節−62節     説教:  
イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
 
人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。
  ユダが捕縛の先導をしました。ユダは捕縛しに来た群衆にイエス様を接吻をもって教えました。接吻はしばしば愛、友情とも訳せる言葉です。ユダはイエス様を裏切っただけでなく、愛の行為で裏切ったのです。
祭司長たちは初めからイエス様を認めていませんでした。イエス様を認めることは自分たちの権威の失墜につながるからです。はじめから抹殺するために捕縛し、殺すために裁判をします。力を持つ者のむき出しの暴力です。毎日神殿にいた時には手を出さず、だれもいない暗闇でイエス様を捕縛に来ました。神を恐れず人の目を恐れたのです。
ペトロはユダと違って弱い人でした。女中の言葉に不本意ながらイエス様を否認します。剣で切り付ける姿も弱さの現れです。イエス様を捕縛しに来た群衆にわずか12人で立ち向かえるはずもなく、剣2振ではどうしょうもないのです。ペトロのしたことは弱い人の無謀な行為なのです。
女中は意地の悪い人でした。寒さの中で焚火の炎に照らし出されたのでしょうペトロの顔を見て「この人もあの男の仲間だ」としゃべり、ペトロが場所を変えると後をついてきてはやし立てました。自分は安全なところにいて傷つかず、興味本位に相手をいたぶるのです。
 
ユダの自分中心、力を持ったものの横暴、ペトロの弱さや女中の醜さ、イエス様の捕縛と裁判には私たちの周囲にもあるこれらの罪が凝縮しています。闇の支配の時でした。
しかし神様は、この闇さえ用いて十字架の御業を遂行されます。闇の力が良いのではありません。しかし神様は闇さえ用いて救いの御業を行われるのです。


2018年3月11日 「祈りの祭壇」     
聖書:ルカによる福音書 22章39節−46節    説教: 
 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

  イエス様のご生涯には三つの大きな祈りがありました。
第一は公生涯の初めの祈りで、聖書には祈りの形では印されていません。荒野の誘惑です。いよいよこれから神の国のために働かれるにあたって、どのようなことが神の国の業なのか、荒野に出て神様に祈り求めたに違いありません。
公生涯の真ん中、弟子たちの信仰告白を受けた後、高い山に登られ、イエス様の本来の御姿が垣間見られた山上の変貌です。生涯の折り返し点で、これまでの歩みを振り返り、これから先の歩みをもう一度確認したのです。
公生涯の最後で最大の祈りがゲッセマネの園での祈りです。これから出会う苦しみに悶え、神の呪いの十字架を覚え、汗を血の滴りのように流して祈り整えられたのです。
イエス様はそこここで祈り、生涯の節目ふしめで祈られました。
 
イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように起きて祈りなさい」と言われます。誘惑とはなんでしょうか。人生には誘惑と試練はつきものです。誘惑や試練のない人はいません。祈りなしに信仰の生涯は全うできるのでしょうか。誘惑のたびに祈ることもありますが、最大の誘惑は祈れなくなることです。試練のたびに祈り、祈りを絶やさず誘惑に立ち向かうのです。
 
苦しみの中で祈り、痛みの中で叫び、誘惑の中で整えられる。私たちも生涯の節目ふしめで祈り、一日に一度、本気で御前に立ちたいのです。祈ることで人知を超える神様の御業にあずかっていくのです。
 

2018年3月4日 「信仰の闘い」  
聖書:ルカによる福音書 22章35節−38節   説教:
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
  「わたしが財布も袋も靴も持たせずあなた方を遣わしたとき(10:4)何か困ったことがあったか。…しかし今は財布のある者は持って行け。…剣のない者は上着を売ってそれを買うように、『彼は罪人の一人に数えられた』と記してあること(22:37、イザヤ53:12)は、わたしの身に成し遂げられなければならない」
これらの言葉を文字通りに受け取れば、イエス様のこれまでの暴力を認めない愛敵の教えや(6:27)や、行為(22:51)と矛盾します。
 
イエス様がかつて弟子たちを遣わした時と、「今」は状況が違います。かつての時は、すい星のように現れたイエス様とイエス様の説く神様の愛の支配を、人々は歓呼の声を以て迎えました。遣わされた弟子たちは大歓迎され、食事が提供され、不足は補われました。
しかし、神様の愛の支配には、その背後に十字架があります。イエス様は犯罪人として十字架に着けられます。このイエス様を人々は拒否し、遣わされる弟子たちは拒まれます。ここにみ言葉の剣で戦う(エフェソ6:17)信仰が求められます。
 
イエス様の愛と赦しを語っても素直に聞いてくれるとは限りません。時には煙たがられ、拒否されます。しかし私たちが愛されたように愛と赦しを語り続けます。ここに信仰の闘いがあります。「わたしたちはキリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことをもたまわっている」(フィリピ1:29)のです。