説教 


2018年5月27日 「左利きエフド」       
 聖書:士師記 3章12−30節     説教: 
イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。 彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した。 こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王エグロンに仕えなければならなかった。
イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った。エフドは刃渡り一ゴメドの両刃の剣を作り、それを右腰に帯びて上着で隠し、 モアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を納めに行った。王は非常に太っていた。 エフドは貢ぎ物を納め終わると、貢ぎ物を運んで来た者たちを去らせ、 自らはギルガルに近い偶像のあるところから引き返し、「王よ、内密の話がございます」と言った。王が、「黙れ」と言うと、そばにいた従臣たちは皆席をはずした。
エフドは近づいたが、そのとき王は屋上にしつらえた涼しい部屋に座り、ただ一人になっていた。エフドが、「あなたへの神のお告げを持って来ました」と言うと、王は席から立ち上がった。 エフドは左手で右腰の剣を抜き、王の腹を刺した。 剣は刃からつかまでも刺さり、抜かずにおいたため脂肪が刃を閉じ込めてしまった。汚物が出てきていた。エフドは廊下に出たが、屋上にしつらえた部屋の戸は閉じて錠を下ろしておいた。
 
彼が出て行った後、従臣たちが来て、屋上にしつらえた部屋の戸に錠がかかっているのを見、王は涼しいところで用を足しておられるのだと言い合った。 待てるだけ待ったが、屋上にしつらえた部屋の戸が開かないので、鍵を取って開けて見ると、彼らの主君は床に倒れて死んでいた。 彼らが手間取っている間にエフドは抜け出し、偶像のあったところを過ぎてセイラに逃れた。
到着すると、彼はエフライムの山地に角笛を吹き鳴らした。イスラエルの人々は彼と一緒になり、彼を先頭に山を下った。 彼は言った。「わたしの後について来なさい。主は敵モアブをあなたたちの手に渡してくださった。」彼らはそのエフドに従って下り、モアブに向かうヨルダンの渡しを手中に収めた。彼らはだれ一人そこを渡らせなかった。彼らはこのとき約一万のモアブ人を打ち殺した。皆たくましい兵士たちであったが、一人として逃れた者はいなかった。
モアブはこの日イスラエルの手中に落ちて屈服し、国は八十年にわたって平穏であった。
  イスラエルの民は、主の目に悪とされることを行ったので、神様はモアブの王エグロンを強くされたのでイスラエルは脅かされました。イスラエルが主に助けを求めて叫ぶと、神様はベニヤミン族のゲラの子、左利きエフドによってイスラエルを救い出されたのでした。
 
毎年イスラエルの民はエグロンに貢物をささげますが、その年はエフドがその危険な役を担いました。彼は貢物を捧げた後自分の町に帰りますが、途中から引き返し、謀反の話を耳に入れるように装ってエグロンに近づきました。二人だけの密談に見せかけて右内股に隠し持った短剣でエグロンを倒したのです。王宮に入るための持ち物検査は右利きの者のための検査だったに違いありません。
聖書はわざわざ「ベニヤミン族のゲラの子、左利きエフド」と紹介します。「ベニヤミン」とは「幸福な民」そして「右手の民」という意味です。今でこそ左利き用の鋏やグローブがありますが、それでも様々な不利益を被ります。しかも当時は左利きの者は不吉なこととされていたのですから、右手の民の中でのエフドの肩身の狭さは想像さえ出来ません。しかし神様はその左利きエフドを用いてイスラエルを救われたのでした。
 
苦しみや肩身の狭さがなくなることだけが救いではありません。また人生にはそんなことは決してないのです。神様はこれさえ無ければと思うそれを用いて、驚くべき御業を行ってくださいます。それを見せていただくのが信仰です。(参Uコリント12:7-9)


2018年5月20日 「全てを包み込む祈り」      
聖書:ルカによる福音書 23章32−43節     説教: 
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

  「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
 
「この言葉は、人間が生まれて祈り始めてから、これ以上神聖な祈りの言葉が天にささげられたためしがない」(パピーニ) この祈りの大きさ、執り成しの深さは愛の奇蹟というほかありません。私たちもそのように祈ってみれば、それが良く分かります。
 
十字架の下では、人々はみな自分の理屈だけで行動しました。民衆や役人は、自分たちが考えるメシヤではないとイエス様を揶揄し、兵卒たちは「ユダヤ人の王」を慰めものにしました。ピラトや祭司長たちも、自分の思惑で行動します。
十字架の上でも、強盗と殺人のかどで十字架に付けられた一人が「おまえはメシヤではないか。自分自身と我々を救って見よ」と取り乱してやけを言い、もう一人は「お前は神を恐れないのか。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたが御国においでになるときにはわたしをおもいだしてください」とその身をイエス様に委ねます。
「二人の犯罪人の間にある区別を忘れてはならないが、それより大切なのは、主イエスはこれらの犯罪人のいずれとも共にいますということであり、イエスの約束はいずれに対しても与えられているということである」(バルト) 
 
一体主イエスの執り成しの祈りの外にいる人はいるのでしょうか。信仰を持った人で一番多かったのは、このイエス様の祈りに信仰の目が開かれたと言います。この祈りがわたしのための祈りだったと悟ったからでした。
 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)。それを悟らせるのが聖霊の働きです

2018年5月13日 「受け渡すべきバトン」     
聖書:申命記 32章45−47節 
    テモテへの手紙U4章1−8節  
  説教:吉岡光人(吉祥寺教会牧師) 
申命記 32章45−47節  

モーセは全イスラエルにこれらの言葉をすべて語り終えてから、
こう言った。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。
それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」


テモテへの手紙U4章1−8節 

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
  御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
彼はこうテモテに命じています。条件が良い時はもちろんのこと、条件が悪い時でも福音を宣教しなさいというのです。宣教は神から託された大切な使命であって、それは自分の状況に左右されるものではなく、ひたすらにその役割を担う必要があるということなのです。
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
と言っているように、耳に心地よいことを語る教師を集めて、正しい福音には耳を傾けなくなる、そういう時が来るだろう。テモテの語る言葉には耳を傾けず、間違った教えを聞こうとする人々が多くなってしまうかも知れない。そういう「折の悪い時」でも、ひるむことなく、しっかりと福音を語り続けなさいというのです。
パウロは自分に残された時間がそう多くないことを感じています。テモテに大切な福音宣教の使命を託し、自分の後に続くようにと彼を促しています。それは競技者が一所懸命に走り、栄冠を受けるようなものだと言っています。そしてその冠は、一番だった者にだけ与えられるものではなく、走った者すべてに与えられる「義の栄冠」なのです。テモテも義の栄冠を受けられるように、託された福音宣教の使命に忠実に生きなさいと奨めているのです。

ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで行われたオリンピック夏季大会で、400メートルリレーで日本チームが銀メダルを獲得しました。一人一人の選手のタイムは他の国の強豪選手にかないませんが、彼らはバトンの受け渡しにどの国よりも時間をかけて練習したそうです。みんなで繋いでいく意識が彼らのチームワークを高めて好成績につながったのです。
教会もこれに似ていると思います。一つ一つの教会は弱くとも、一人一人のキリスト者は強くなくとも、しっかりと自分たちが走るべき道のりを走って、次の世代に福音を受け渡すことができれば、福音というバトンは確実にゴールに向かってゆくのです。そしてそれが教会全体の喜びとなるのです。日本の教会の現実は確かに厳しいものがあります。数字を見ると悲観的にならざるを得ないことばかりです。しかし、日本の宣教はいつだって厳しかったのです。楽だったことなど一度もないのです。数字を分析していたずらに悲観的になることなく、福音というバトンを確実に次の世代に受け渡して行くことが大切なのです。走るべき道のりをしっかりと走り、「折が良くても悪くても」確実にバトンを受け渡して行くのです。神によって「義の栄冠」を約束されたゴールが私たちの行く手に用意されています。そこを目指して福音を宣べ伝えること、そこに喜びを見出したいと思います。

2018年5月6日 「喜びの礼拝を捧げる」  
聖書:詩編 66篇1−20節   説教:
【指揮者によって。歌。賛歌。】全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。 御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。
神に向かって歌え/「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。
全地はあなたに向かってひれ伏し/あなたをほめ歌い/御名をほめ歌います」と。〔セラ
 
来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。
神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。
 
神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。
 
わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。 神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。
  今年度大宮前教会は「喜びの礼拝を捧げる」を教会標語と定めました。2016年度は創立80周年を記念して「この街から愛されて80年、この街の平安を祈って80年、これからも祈り続けます。」と定めました。2017年度は、この街に神様の祝福を祈るために「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119篇105節)から「み言葉に生きる」としました。今年度は、礼拝を真実に守ることで、自分も自分たちの住む社会にも救いが及ぶことから上記の標語を定めました。
 
「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。 御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。」
 神様を信じているイスラエルだけでなく、全地の住民に神を賛美することへと招きます。
「 神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。 神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。」
 歴史の中で示された出エジプト・ヨルダンを渡ってカナンに入った歴史の事実に目を留め神様を賛美します。
 
「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。 あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ 人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた」
個人的に耐えられないような苦難から救い出されました。詩人はそれらを確認して神様への賛美へと私たちを招きます。
 
私たちはイエス様の十字架と復活の事実、個人の歩みの上に表わされる神様の恵みを確認して、礼拝で神様をたたえます。一週に一度ですが、ここで自分を整えられるので感謝です。