説教 


2018年6月24日 「主を賛美せよ」      
聖書:士師記 4章1節−24節   説教:  
エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、 主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。 イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである。 ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。
彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに召集した。一万人が彼に従って上り、彼と共にデボラも上った。
カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。
シセラはアビノアムの子バラクがタボル山に上ったとの知らせを受けると、 すべての戦車、すなわち九百両に及ぶ鉄の戦車に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、ハロシェト・ハゴイムからキション川に向かわせた。デボラはバラクに言った。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。 バラクは、敵の戦車と軍勢をハロシェト・ハゴイムまで追いつめた。シセラの軍勢はすべて剣に倒れ、一人も残らなかった。
シセラは、カイン人ヘベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来た。ハツォルの王ヤビンと、カイン人ヘベル一族との間は友好的であったからである。 ヤエルが出て来てシセラを迎え、「どうぞこちらに。わたしの主君よ、こちらにお入りください。御心配には及びません」と言うと、彼は彼女に近づいて天幕に入った。彼女は布で彼を覆った。 シセラが彼女に、「喉が渇いた。水を少し飲ませてくれ」と言うので、彼女は革袋を開けてミルクを飲ませ、彼を覆った。 シセラは彼女に、「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰かいるかと尋ねれば、だれもいないと答えてほしい」と言った。 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。
そこへバラクがシセラを追ってやって来た。ヤエルは出て来て彼を迎え、「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」と言ったので、彼は天幕に入った。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていた。 神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。
イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。
  一人の主婦が、毎日は忙しく家事をこなしていたのでしょうが、暇が出来るといつも木の下で祈っていました。人々は彼女のもとに集まってそこで神様のお心を問うようになりました。
 
ある時神様は彼女に、カナンの王ヤビンとその将軍シセラによって圧迫されていたイスラエルを救う使命を与えられました。ヤビン王の参謀シセラは900両の戦車をもっていました。
当時の戦車は馬が兵士を乗せた車を引くのですが、剣や槍、弓が武器だった当時、馬のひく戦車は脅威でした。手勢はナフタリ族とゼブルン族の僅か1万人です。
 
デボラたちはタボルから一気に山を駆け下ってシセラに襲い掛かる作戦を立て、シセラはいつもは枯れているキションの川原でそれを迎え撃つために戦車の布陣をしました。そこに集中豪雨が襲い馬も戦車も動きの取れないところを一気に山の上から駆け下り、シセラの軍勢を打ち破り、シセラはありふれたテントの釘でとどめを刺されました。ヤビンは逃げおおせますが次第に力を失いついに滅び、イスラエルは解放されました。
 
一つひとつは小さな積み重ねと偶然のようですが、その背後に神様の導きがありました。見える現実には悲しみや辛さがあっても、この神様の支配を信じて歩み続けるのです。
問題は一気に起こるときもありますが、慢性疾患のように長い時をかけての吹き出てくることもあります。問題は一気に解決されることもありますが、潮が引くように徐々に解決されることもあります。神様の愛の支配を信じますので、主を賛美しながらその「時」を待つのです。
           
婦人たちの祈りや当たり前のことを用いて、神様は御業を現されます。だいそれたことではありません。
自分にできることで神様の業にあずかり神様を賛美すること、これが信仰です。

 

2018年6月17日 「神の業の事実と承認」     
聖書:ルカによる福音書 24章13節−35節     説教:  
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
  イースターの夕方、クレオパともう一人の弟子は、寂しげにエルサレムを後にしました。甦られたイエス様は彼らを見て一緒に歩かれました。
 
彼らの思いを占めていたのは、夢と希望を託していたイエス様が十字架であっけなく殺されたことでした。十字架に込められた私たちを神様に結び付けてくださったという事実に気づかないのです。
死んだ者が甦ることなど考えられない二人には、甦られたイエス様の報告は混乱させるだけでした。生きてイエス様が共に歩んでくださっていることに気づかないのです。
 
 二人はイエス様の十字架や甦りを信じることができませんが、それは自分の思いにとらわれていたこともあるでしょうし、それが納得できなかったということでしょう。しかし納得できず理屈に合わないのは、十字架や復活だけでなく、イエス様が神の独り子として誕生されたこと、十字架で私たちを神様に結びつけてくださったこと、甦られて私たちと共にいてくださること、みなそうです。
 物質の世界なら、ことがらを切り刻み、極めることで納得できますが、人格の関係は、納得することでなく信じる以外ないのです。
「神様がおられるかどうかという気持ちで聖書を読むのでなく、神様の業を聞かしていただくと腹を据えて聖書を読むと、神様の愛を受け止めることができます。」
十字架と復活の背後に神様の業が信じられる時、そしてそのイエス様にこの身を委ねる時、これまでとは全く違う恵みの世界が開けます。

 

2018年6月10日 「なぜ生きておられる方を
          死者の中に捜すのか」
 
   
聖書:ルカによる福音書 23章56B節−24章12節    説教: 
 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
  イースターには戸惑いあります。クリスマスはわかります。一人の男の子の誕生とそれによって神様の愛が明らかにされたこと。だれでもわかります。しかしイースターは違います。イエス様が、蘇生ではなく死者の中から甦ったこと、それはどう考えても理屈にあいません。しかも聖書はイエス様がどう甦ったかは記さず、ただ空虚な墓を示してイエス様の甦りを伝えます。納得できません。信仰とは納得することではなく信じることを伝えようとしているのです。
 
「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ。〕(24:5−6)
婦人たちが香料を手にして墓に行ったとき、天使に言われた言葉です。グラスゴ−大学のバークレー教授は、私たちも三つの仕方でイエス様を死人の中に訪ねていると言います。@イエス様を偉大な人、高貴な英雄をすることで。A研究の対象とすることで。B自分たちの模範とすることで。イエス様は愛に生き、神の勇気を持った人でした。その言葉、教え、影響力、それを知って自分の欠けを補う。イエス様を表面的にならうのだとしたら、私たちもイエス様を死人の中に訪ねているのです。
 
婦人達は天使の言葉を聞いて、かつてイエス様がおっしゃっておられた言葉にハッと思い当り、そうだったのかとイエス様の甦りに目が開かれました。
イエス様が甦られたということは、かつての日に甦っただけでなく、今も生きて共におられるのです。この主に祈り、信頼し、その愛を受け、私もそれに応える。そういう交わりがないとしたら、私たちもイエス様を死人の中に訪ねているのです。

2018年6月3日 「その撃たれた傷により」  
聖書:ルカによる福音書 23章44節−56節   説教:
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
 
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 家に帰って、香料と香油を準備した。
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
  イエス様が十字架に付けられたのは朝の9時ころでした。ピラトが驚くほど早く、午後3時には亡くなられました。
百卒長はその様子を見て「この人は本当に正しい人であった」と言い、群衆もガリラヤから来た女たちも遠くからこの様子を見ていました。「正しい人」とは神様との関係が正しいということ、「見た」とは、ただ見たというのではなく、イエス様は正しい人であるのに十字架に架けられたことの証人であったということです。
 
イエス様はわたしたちの罪のために身代わりになって、神様にとりなしてくださいました。私たちはその打たれた傷によって癒されたのです(イザヤ書53章)。
 
私たちは生きる上で罪と無縁ではあり得ません。いつもどこかで罪の影がついて回ります。その際私たちは心を柔らかくしたいと思います。だれでもしていることだから。この場合は罪を犯さずには生きられないのだ、と開き直りません。逆に私は手を汚さずに生きていると言えません。無人島で生きているのではありません。人は罪と無縁では生きられないのです。自分の実態を知るとともに自分の上に行われている神様の業を知りたいのです。
私が神様のために何をしたかではなく、神様が私のために何をしてくださったかに目が開かれることが信仰です。自分は神様と隣人から赦されている、それで周りの人とも赦しの中で生きるのです。