説教 


2018年7月29日 「あなたの力をもって」     
聖書:士師記 6章1節−32節    説教: 
イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。 ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。 イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。 彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。 彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。
 
イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、 主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。 わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。 わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」
 
さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」 主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」 彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」 彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。 どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。 神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」 ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
 
その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物としてささげよ。」 ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。
翌朝早く町の人々が起きてみると、バアルの祭壇は壊され、その傍らのアシェラ像も切り倒されていた。築かれた祭壇の上に第二の若い牛がささげられているので、 人々は口々に、「誰がこんなことをしたのか」と言った。尋ねまわってヨアシュの子ギデオンの仕業だということが分かった。
町の人々はヨアシュに言った。「息子を出せ。息子は殺さねばならない。バアルの祭壇を壊し、傍らのアシェラ像も切り倒した。」
ヨアシュは、責めたててやまない人々皆に向かって言った。「あなたたちはバアルをかばって争うのか、バアルを救おうとでもいうのか。バアルをかばって争う者は朝とならぬうちに殺される。もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう。」ギデオンがバアルの祭壇を壊したので、「バアルが彼と争うがよい」と言って、父はその日ギデオンをエルバアル(バアルは自ら争う)と呼んだ。
 
  砂漠の民ミディアン人は、イスラエルが収穫の時になると襲って来て、根こそぎに収穫を奪っていくのでした。民は神様に叫び、神様はそのためにギデオンを立てました。 
 
神の使いはギデオンに言いました。「勇者よ、主があなたと共におられます」 ギデオンは「神が私たちと共ににおいでになるのでしたら、なぜこのようなことがおこるのですか」と日頃の思いを口にします。神の使いはそれには答えず「あなたの力をもって行き、イスラエルをミデアン人から救い出せ」と言われます。ギデオンは度肝を抜かれたと思います。自分の家系と自分自身が如何に貧弱な者であるかを言い立てますが、神の使いはそれを認めません。
神の使いの言葉に抗しきれず、ギデオンは神様が共にいることのしるしを見せてもらい、先ずしたことは、家にあるバアルの祭壇を壊し、アシュラ像を薪にしたことでした。
 
問題を前にして愚痴を言っても、逃げても問題は解決しません。問題を前にしての最大の妙薬は、腹をくくって自分から担うことです。自分の力で担う以外ないのです。
 
ギデオンは自分の弱さを知っていました。それが力です。「あなたの力をもって」とは、弱さを知ること、弱さを知っているので慎重になります。それが力なのです。
 
問題を前にして逃げてはいけないことはだれでも知っています。しかし、知っていても出来るわけではありません。圧倒的な問題の前で、弱さが力だなどとのんきなことは言えません。しかし、神を神とすること、神様が愛をもってこの世界を支配して下さっていることを知らされているので、そこから押し出されるのです。

 

2018年7月22日 「唯一の神」       
聖書:マタイによる福音書 11章25節−30節     説教:  
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
  「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたもう」
 
神様については四つのとらえ方があります。仏教のような汎神論、神道のような多神教(日本には八百万の神様がいると言われます)、拝一神教(多くの神の中から一つの神だけを拝む)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような唯一の神(Tコリント8:4−6)しかいないという唯一神教です。
 
この神様は「主イエス・キリスト」によって啓示され(覆いが取り去られ中身がはっきりされること。私たちの獲得した知識でなく自分たち以外のところから示された知識)、聖書に証しされました。この神を「三位一体」という仕方で私たちは告白します。
神様が天地の創り主、全能の父なる神様であることはわかります。
この神様をイエス・キリストによって私たちは知らされました。しかし、イエス様は二千年も昔のユダヤで生まれた方です。聖霊が私たちに働きかけ、イエス様に目を開かせ、イエス様によって神様を明らかにしてくださいました。
 
父と子と聖霊が三つの神ではなく、一つの神(三位一体)であるということは、聖書の証しする霊にして人格的な神様を、キリストとの関わり聖霊との関わりで言い表していることなのです。罪人なる私たちが神様を知らされ、それを言い表す信仰の秘儀なのです。      

2018年7月15日 「信仰と生活の規範」      
 聖書:詩 編 119篇105節−112節    説教:  
 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。
わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。
わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。
主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。
あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。
  日本基督教団信仰告白は聖書について告白します。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。
されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」
聖書について、先ず教会について記し、次に信仰者にとって聖書とは何かを考えます。
 
聖書は科学的におかしいと批判することは妙なことです。聖書が科学の教科書ではないからです。詩人が描く雲と気象学者の表現する雲は、同じ雲を見ていても違います。違っていてもお互い間違いではありません。それを間違いだというのは筋違いです。
聖書はただ「神につき、救いにつき」記している書物です。ほかのことは記していません。しかし、こと神様のこと、神様の与えて下さった救いについては必要充分に記し尽くし、一言もこれに付け加えることも、差し引くことも出来ません。
 
聖書は神の言葉と言っても、ヘブル語とギリシャ語で書かれた書物で、天使の言葉で書かれたものではありません。そこに神様のお言葉と、神様の与えてくださった救い主イエス様が記されているからです。人は聖書を古典の一つと見るかも知れませんが、私たちにとっては「神の言葉」です。
子どもの病気や思いがけない災難を前に「明日のことを思い煩うな」(マタイ6:34)との御言を読み、そのお言葉に委ねて平安をえます。全ての人がそうではありません。それは聖霊の導きによります。
 教会で聖書に聞き、日々聖書に聞く。私たちはみ言葉で歩みを整えられる幸いを味わっていきます。
 

2018年7月8日 「聖典としての聖書」     
聖書:テモテへの手紙U 3章10節−17節    説教: 
しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
  日本基督教団信仰告白は聖書について告白します。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」
まず教会にとって聖書とは何かを考えます。
 
39巻からなる旧約聖書はBC11世紀〜AD2世紀に記され、27巻からなる新約聖書はAD50〜100に記されました。著者は数十人に及び、書かれた場所も、状況も異なり、読者も様々です。「神の霊感により」とは、人が恍惚となって一字一字書いたということではなく、オーケストラの指揮者のタクトのように聖霊が導いて記し、編纂し、聖書たらしめたということです。
奏でるメロディーは「キリストであり、福音の真理」です。旧約聖書は、期待、約束、予表、預言の形で、新約聖書はキリストの十字架と復活の証人の言葉として、キリストを記します。キリストに出会うとは、福音の真理に出会うことです。つらく苦しいことがあっても、あの痛ましいキリストの手続きによって神の愛を信じて生きていっていいのだという喜ばしいおとずれを聞き、知れば知るほど人をとらえる真理に出会います。
 
この聖書は教会の唯一の正典(カノン―物差し)です。教会は聖書によってのみ教会とされ、カトリック教会は聖書と諸伝統と言いますが、私たちは教会のよってたつ根拠は聖書だけと告白します。
教会がそうであるように、私にとっても聖書はそうなのです。
 

2018年7月1日 「神を信じ、告白する喜び」  
聖書:ローマの信徒への手紙 10章5節−13節   説教:
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
  信仰告白とは、堅苦しい法律の条文のようなものではなく、神様への賛美であり、私たちを一つにする印であり、周りの人に対しては信仰の中味を明らかにする旗印です
 
私たちの属する日本基督教団は、1707の教会・伝道所があり、それが17教区に分かれ、大宮前教会の属する西東京教区には95の教会・伝道所があります。
日本基督教団は1941年6月、34教派、1509教会が合同して成立しました。それは国家主義の高まりの中で、国の統制の中に入れられる形で、新教の教会が「宗教団体法」の下に一つとさせられたものでしたが、教会はこのことをむしろ神の摂理と受けとめて、その後も教団であり続けたのでした。
 
様々な教派からなる教団は、「信仰告白」を定め、一つとなる願いをもち続けました。その際、それぞれの教派の寄せ集めで信仰告白を作ったのではなく、プロテスタント教会の基本を明らかにするものとして作られました。富士山は裾野から決めようとすれば困難ですが、頂上は誰が見ても明らかです。教団の信仰告白はそのように、他と区別する告白ではなく、ここで一つとなろうという招きの告白なのです。
 
信仰告白の前文は使徒信条では明らかにされていない「聖書について」「三位一体と贖罪について―神様が私達にしてくださったこと」「義認と聖化について―救いの確かさ」「教会の本質と使命について」告白したあと、代々の聖徒と共に「使徒信条」を告白します。
信仰告白は、聖霊の導きなしにはありえません。この告白を信じ、口で告白することで、神様を信じる喜びを確認するのです。