説教 


2018年8月26日 「あなたの民はあまりに多い」      
聖書:士師記 7章1節−23節     説教:  
エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。 主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。 それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。
 
主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」 彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」 水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。 主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
 その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミディアン人の陣営は下に広がる平野にあった。
 その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、 彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。」彼は従者プラを連れて、敵陣の武装兵のいる前線に下って行った。ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった。ギデオンが来てみると、一人の男が仲間に夢の話をしていた。「わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。」 仲間は答えた。「それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ。」
 
ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」 
 
彼は三百人を三つの小隊に分け、全員に角笛と空の水がめを持たせた。その水がめの中には松明を入れさせ、 彼らに言った。「わたしを見て、わたしのするとおりにせよ。わたしが敵陣の端に着いたら、わたしがするとおりにせよ。わたしとわたしの率いる者が角笛を吹いたら、あなたたちも敵の陣営全体を包囲して角笛を吹き、『主のために、ギデオンのために』と叫ぶのだ。」
 
ギデオンと彼の率いる百人が、深夜の更の初めに敵陣の端に着いたとき、ちょうど歩哨が位置についたところであった。彼らは角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。 三つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んだ。 各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走した。三百人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・メホラの境まで逃走した。イスラエル人はナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、ミディアン人を追撃した。
  いつものようにミディアン人が東方の民と共にイスラエルの収穫物を狙って来襲しました。その数は13万5千人。ギデオンが民を招集すると3万2千人が集まりました。神様は「あなたの率いる民は多すぎる」と言われ、ギデオンは義理で来たり恐れおののいている者を家に帰しました。何と2万2千人が帰り、残ったのは1万人でした。いやいや参加し恐れる者は味方を内側から突き崩します。
 
それでも「民はまだ多すぎる」と言い、水の飲み方でテストをして9千7百人を待機させ、残った者は300人。その300人をもって13万5千人に立ち向かったのです。
ミディアン人たちが数を頼んで、本当はギデオンたちを恐れていることを偵察によって知ると、空壺と松明とラッパで奇襲を思わせ、敵の同士討ちを誘ってイスラエルを救ったのでした。
 
神様は「あなたの民は多すぎる」と言ってギデオンに数を減らすことを命じました。持ち物でも力でも、増やすことが命が保証されるように思えて心強く、逆に減らすことは心細いものです。しかし減らし、失わないと分からないことがあります。現実は自分では減らせませんし、奪われ、失うのかもしれません。減らし、失って初めて新しい世界が開かれることがあります。
 
『病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き得ない御言がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった』(河野進)

 

2018年8月19日 「この変わらざる恵みの内に」     
聖書:ヨハネによる福音書 15章1節−10節    説教: 
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
  日本基督教団信仰告白は神様のしてくださった救いの業をどう自分のものにするかについてこう告白しています。
「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」
義認(義とされること)と聖化(潔められること)についての告白です。信仰告白の第三項は義認と聖化、信仰と行為の関係を告白していますが、この箇所はその聖化の問題です。この告白の後半を考えます
 
私たちには忸怩たる思いがあります。自分を見つめれば、いつまでも卑しく汚れた心が抜けず、その言葉と思いと行いはイエス様の御顔に泥を塗るようなことばかりです。すると、信仰によって義とされるということはどうなるのでしょうか。
ある人は言います。洗礼を受けるまでの罪は十字架で赦され、洗礼後の罪はそれに見合う償いが必要であると。また言います。勿論キリストの十字架を仰ぐが聖霊の潔めがなければ本当の救いとは言えないと。もしそうだとすれば、「信仰のみ」「ただキリストを信ずる信仰によりて義としたもう」は否定され、主の十字架は不完全なものになります。
 
「この変わらざる恵み」とはキリストの赦しの完全性です。ここに立ち続けるとき、聖霊が私たちを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまいます。義とされたことを聖化で仕上げるのではありません。義とされることの上に立ち続けることで、次第に潔められて義の実を結ぶことが起こります。わたしが実を結ぶことではなく、聖霊が私のうえに御業をなしてくださるのです。(ガラテヤ5・22)

2018年8月12日 「救いの確かさ」     
聖書:ローマの信徒への手紙 4章1節−12節   説教: 
 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
  日本基督教団信仰告白は神様のしてくださった救いの業をどう自分のものにするかについてこう告白しています。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」義認(義とされること)と聖化(潔められること)についての告白です。
この告白の後半を考えます。                     「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により我らの罪を赦して義としたまふ」
「恵み」とは、ありえないこと、本来なら受けられるはずのないものに注がれる神様の好意です。それは「選び」に現されます。私たちが信仰をえたのは、家が信仰者の家庭であったり、友人に紹介されてのことであったりしますが、それはきっかけであって、本当の原因は神様の選びによります。そうでなければ、私たちの信仰の熱心によって立ちもし倒れもすることだとしたら、何とその信仰は不安定なことでしょう。心や決心は猫の目のようにコロコロ変わるからです。
 
「罪を赦す」ことと「義とする」ことは同じことです。義とするとは法律用語で裁判官が無罪を宣告することですが、もともと罪が無いので無罪というのではなく、キリストの十字架の犠牲によって罪が赦され、義とされたのです。
罪が赦され義とされることは、救いの別名です。無罪放免になって生きるのではなく、罪赦されて神様を父、味方として生きることなのです。
 
このことは信仰によって自分のものとなります。どんなに喜ばしいおとずれであっても、その人がそれを信じなければ、その人のものとはなりません。正しい行いによって自分のものとすることは分かり易いですがそうではなく、イエス様の十字架による赦しの贖いを信じることによってです。 
 

2018年8月5日 「救いの確かさ」  
聖書:ヘブライ人への手紙 9章23節−28節   説教:
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
  日本基督教団信仰告白は神様のしてくださった救いの業についてこう告白しています。
「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。
御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。」
 
この箇所は神様についての告白で、その後半部分で、御子が私たちのために何をしてくださったかを告白しています。

聖書は人を罪人と言います。罪とは「まと外れ」 という言葉です。嘘をついたり人の物を取ったり、それらも罪ですが、それらは上辺の現れたもので、内側の隠れたものがあります。それは法律の問題ではなく神様の前で問われる生き方の問題です。的を外した生き方、生きる姿勢の問題です。
そんな私たちのために、御子は私たちのうちに宿り(クリスマス)、あの痛ましい十字架にかかって贖いをしてくださいました。
 
「贖い」とは身代金を払ってその人を元の身分に返すことです。救いと言い換えてもよいわけです。しかし贖いには身代金が必要です。償いのない贖いはありえません。御子イエス様が己れを全き犠牲として神に捧げ、贖いをしてくださいました。この救いの業は完全なので、たった一度でよかったのです。
 
なぜ信仰があやふやなのでしょうか。私が何をしたか、どう感じるかばかりを問題にするからです。私が何をしたかではなく、神様が私のために何をしてくださったか、ここに立ち続けるのです。