説教 


2018年9月30日 「誓いを果たす」     
聖書:士師記 11章29節−40節     説教:  
主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。
エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」 彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。 二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。
 
  エフタは遊女の子で、皆からいじめさげすまれ、家を追い出されました。仕方なしにトブに住みましたが、いつの間にかエフタの周りにはならず者が集まりました。
そんなエフタの元にかつて自分を追い出したギレアドの人々が来て、アンモン人との戦いの指揮をとって欲しいと頼みに來ました。はじめエフタはその厚かましい願いを固辞しますが、困りあぐねての事であることがわかり、指揮を取って戦うことを引き受けました。
エフタは戦いの前に、その際「アンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、家の戸口からわたしを迎える者を焼き尽くすその供え物といたします」と神様に誓いました。大勝利を得たエフタを迎えたのは愛娘でしたが、娘の言葉もあって、彼は誓いのとおり実行しました。

こんな事があっていいのかと思います。アブラハムがイサクを捧げる話がありますが、それとてアブラハムの信仰を知った神様が雄羊を用意してくださいました。後の預言者は異教の忌むべき習慣としてこれを固く禁じています。エフドの誓いに対して、軽率な誓い、勝利のための取引であって信仰ではないとも言われます。

しかし、へブライ人への手紙11:32ではサムエルやダビデと同じようにエフタの信仰が賞賛されています。それは誓いをはたし、信仰の筋を通すことに対してです。筋を通す事は融通が利かず、不自由なように思います。しかし結局曲げてはならないことを曲げ、節を折る事で、後からそのツケが廻ってくるのです。信仰には信じる方をもつ喜びや魂の自由や平安もあります。従いたいときには従って都合の悪い時には従わない、そこからは決してこの喜びや平安は出てこないのです。

2018年9月23日 「全能の父なる神を信ず」     
聖書:マタイによる福音書 6章25節−34節     説教:  
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
  「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
日本語ではこう表現しますが、本来は「我は信ず、神を、父なる。全能の、天地の造り主なる」となります。つまり、我は父なる神を信ず、その父なる神様が全能で、天地の造り主でい給うということです。 
                              
神様が父なる神でい給うことは、旧約聖書にもありますが(出エジプト4:22、申命記32:6)そこでは民族の父です。
私たち一人一人に父なる神として明らかにされたのはイエス様によることです。イエス様は「天におられる私たちの父よ」と祈れとお教えくださいました。ルカ15章には、身を持ち崩した息子を無条件で出迎える父が記されています。兄は弟を自業自得といいますが、失敗し迷いでた弟を捜し続け待ち受ける父で、イエス様が明らかにしてくださった神です。
 
その父なる神が全能だといいます。全能とは何でも出来ることですが、地球の自転を止めるような自然の理にもとることや、愚にもつかないことではありません。人間がどう努力し、頑張っても出来ないことをしてくださる意味において全能です。それは、罪の赦し、死の克服、偶然の問題、不条理の解決です。
十字架に掛かり、甦られ、生まれながらの盲人に『神の御業のあらわれるため」(ヨハネ9:3)といわれたイエス様によって初めて告白できることです。
 
天地の造り主が、私と無縁の宇宙の根源などで告白されたのでないように、全能の父も無限の可能性として告白されるのでなく、私がいつでも何処にいてもお救い下さる神様への告白なのです。

2018年9月16日 「天地の造り主を信ず」     
聖書:イザヤ書 40章27節−31節    説教: 
ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
  「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
 
使徒信条は、紀元150年頃からローマ教会で用いられていた信条が原型と言われ、教団の信仰告白は使徒信条をその中に組入れることで「代々の聖徒と共に」時空を越えた連帯の中で、その信仰を告白しています。使徒信条は、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊」の枠組みの中で告白され、その中心はキリスト告白です。
 
日本人はご利益を願うかたたりを恐れて神をまつります。ギリシャ神話は人や自然を体系化して人間が作り上げた神です。私たちの信じる神様は、造られたものではなく、造り主。人が作ったのではなく、人を造られた神様です。私と無縁のところで宇宙の根源を考えたり、論じたりすることが天地の造り主の神様を考えることではありません。
創世記1章「初めに神は天地を創造された」、イザヤ書40章「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」はイスラエルの民が国を失い、バビロンに奴隷として連れて行かれた苦悩の中で知らされた神様のお姿でした。
 
生まれてから三日目に両親が離婚した友人がいました。彼は悩みました。自分が生まれてきたのは間違いか、本当に生まれてきて良かったのかと。天地の造り主を信じるとは、人生の底が抜けるような体験の中で、この世界は運命や呪いが支配しているのでなく、この世界もそして私も神様が造り保持してくださっている。天地の造り主の神様が私の味方であると畏れと感謝をもって告白することなのです。
 

2018年9月9日 「教会の務め」     
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章14節−21節    説教: 
 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

  「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しくのべ伝え、バブテスマと主の晩餐との聖礼典執り行い、愛の業に励みつつ、主の再び来たり給うを待ち望む」
日本基督教団信仰告白の第4項の前半は教会の本質についての告白、後半は教会の努めについての告白です。
 
教会の務めで第一の根本の務めは礼拝です。
ここで私たちは神様に出会い、これがなければ他に何がなされていても教会ではありません。この礼拝は、私的な礼拝ではなく公の礼拝で、全世界の人に開かれ、地上にある者も既に天に召された者も相呼応する礼拝です。
「教会は、聖徒の会衆であって、福音が正しく説かれ、聖礼典が福音にしたがって正しく執行されているところ」(アウグスブルク信仰告白)をそのまま日本基督教団信仰告白は採用しています。
神様を信ずる信仰に隣人愛は不可欠です。それは「信仰によって働く愛」(ガラテヤ5:6)です。社会活動も隣人愛の現れですが、換言すれば、その活動が神様からの隣人愛から出ているかを見据える必要があります。また、現代の最大の問題はエイズではなく隣人への無関心であることは銘記すべきです。
私たちは託されている家庭を大切にし、仕事で隣人に貢献し、人生を大切に生きますが、同時に、再び来たり給う主を見据えて生きる群れなのです。
 

2018年9月2日 「教会とはどんなところ」  
聖書:ローマの信徒への手紙 12章3節−8節   説教:
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
  「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」
日本基督教団信仰告白の第4項の前半(上述)は教会の本質についての告白です。
 
教会とは何より「キリストの体」です。(エフェソ4:13 コロサイ1:18)頭はキリストで、体に属するわたし達はその部分として、その頭と部分とが有機的に機能してキリストのお心を心として歩みます。教会はキリストの生命にあずかる交わりの共同体なのです。(ローマ12・3〜8、Tコリント12章)これを忘れたら教会は教会でなくなります。
教会はキリストの立場からすれば「キリストの体」ですが、私たちの側から見ると「恵みによりて召された者の集い」ということです。
「召される」とは、神様から呼び出された者で、それは「恵み」によります。教会は、地上の組織体ですが、神様に根拠をもつ集いです。現実的な交わりをもちますが、その本質は神様の召しによります。私たちの信仰に逸脱が生じるのは、その教会がわかっていないことからくるのかもしれません。教会はそれがあったほうが便利な組織ではありません。人生の一時期燃やされる組織でもありません。教会は、神様が地上に御業を行なう拠点であり、わたし達がそこで天に結ばれる接点なのです。 
 
人生に行き詰まる時があります。自分で自分を支えられなくなる時があります。でも神様は寄り添ってくださる方を与えて下さいます。その方がいることを知って下さい。礼拝で知ってください。