説教 


2018年10月28日 「誘惑と悔改め」     
聖書: 士師記 16章15−31節    説教: 
デリラは彼に言った。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」
デリラは、彼が心の中を一切打ち明けたことを見て取り、ペリシテ人の領主たちに使いをやり、「上って来てください。今度こそ、彼は心の中を一切打ち明けました」と言わせた。ペリシテ人の領主たちは銀を携えて彼女のところに来た。彼女は膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼女はこうして彼を抑え始め、彼の力は抜けた。 彼女が、「サムソン、ペリシテ人があなたに」と言うと、サムソンは眠りから覚め、「いつものように出て行って暴れて来る」と言ったが、主が彼を離れられたことには気づいていなかった。
ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた。 しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた。
 
ペリシテ人の領主たちは集まって、彼らの神ダゴンに盛大ないけにえをささげ、喜び祝って言った。「我々の神は敵サムソンを/我々の手に渡してくださった。」 その民もまたサムソンを見て、彼らの神をたたえて言った。「わが国を荒らし、数多くの同胞を殺した敵を/我々の神は、我々の手に渡してくださった。」
彼らは上機嫌になり、「サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」と言い出した。こうしてサムソンは牢屋から呼び出され、笑いものにされた。柱の間に立たされたとき、 サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、「わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい」と頼んだ。
建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」
 
それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。
そこでサムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。
彼の兄弟たち、家族の者たちが皆、下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び、そこに葬った。彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。
  私たちもよく知っているサムソンは、怪力を持ち、機知にとんで、まるで金太郎と一休さんを併せたような人です。彼には短所もありました。ことのほか女性に弱かったのです。
サムソンはティナムのペリシテ人の女性に魅かれ会いに行く途中獅子に襲われますがまるで子山羊を裂くように獅子を裂きます。サムソンの様々な乱暴に業を煮やしたペリシテ人たちはあの手この手でサムソンに立ち向かいますが、サムソンの前になすすべがありません。
そんな彼がデリラに惚れ、デリラに彼の力の秘密(ナジル人としてびんの髭をそらないこと)をもらしてしまい、寝ている間に頭をそられ、あえなくつかまり、目をくりぬかれて石臼を引く奴隷にされました。
ペリシテの祭りの日、その時には髭が伸びていたのですが、サムソンは「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。領主たちだけでなくわたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物はそこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった」(士師16:25−30)のでした。
 
だれにも、長所と短所があります。問題はそんな長所と短所を併せ持つ私たちが、試練と誘惑が絶えまなく続く人生を送ることです。
試練のない人はいません。試練は時として短所を狙い撃ちにします。様々な誘惑もあります。それは時として長所が墓穴を掘らせます。人は決して強くないのです。長所は人生を豊かにはしますが強くはしません。長所があっても短所を持っていても人は弱いのです。この弱さを私たちはどれほど自覚しているでしょうか。
人がこの弱さに気付き、神様に向かって歩き出す。それが悔改めですがそこから新しい事が始まります。神様はそれを用いてくださいます。すると自分の強さで生きていたときには知らなかった新しい世界が開かれるのです。必ず道は拓かれるのです。

 

2018年10月21日 「十字架はなぜ救いなのか」      
聖書:マルコによる福音書 15章21−41節     説教: 
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書  の言葉が実現した。†
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた
この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
 
  「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」
 
イエス・キリストがあの痛ましい十字架につけられたのには、弟子の裏切り、祭司長などの嫉みと扇動、群衆の付和雷同、時の総督ピラトの優柔不断などがあげられますが、何より、キリスト御自身の意思がありました。キリスト自らがそれを願い、そのように行動されてのことでした。
 
キリストの十字架の意味は、旧約聖書ではイザヤ53章に最も明確に証言されています。私たちは自分の播いたものを刈り取って苦しみます。しかしその罪に苦しむ者のために、罪の無い者が代わって苦しむ。十字架の苦しみはそれなのです。キリストは罪の呪を引き受け、神様に赦しを願い、私たちを神様に結びつけてくださいました。
それが起こったのは、あのポンテオ・ピラトが総督をしていた時(紀元26〜36年)なのです。
 
聖書に、家内安全、商売繁盛、無病息災の教えが無いわけではありません。
しかしそれを追い求めても、人には、自分中心と神様を神様としない無神性の罪がありますので、その三つの願いは得難く、手に入れてももろい物なのです。
 
 人の生きがいは、物にあるのではなく人と人との関係にあります。生きていてよかったというのは、おいしいものを食べ、きれいな着物を着ることではなく、愛し愛され、支え支えられるという人との関係の中にあります。この関係を破壊するのが罪であり悪です、修復するのが愛であり赦しなのです。
 
 教会が十字架を説くのはこのためです。


2018年10月14日 「神、人となり給う」     
聖書:ルカによる福音書 1章26−38節    説教: 
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
  「主は聖霊によって宿り、乙女マリヤより生まれ」

近代合理主義の波を被った私たちには、この箇条は受け入れがたいものです。自然の法則にかないません。しかし、私たちの知識は不完全で、パスカルの言うように「理性の究極はその能力を超越する多くの事柄のあることを認める」ことなのです。 
古代の英雄の誕生物語であって、十字架や復活と同列におくことが出来ないと思えます。しかし、偶像礼拝に導くものを聖書が書くはずはなく、十字架・復活は受肉があってのことなのですが。
マタイ・ルカにしか記されていません。しかし、逆にマタイ・ルカが証言していることを高く評価すべきなのです。イエス様が大祭司でい給うことを記すのは、ヘブライ人への手紙だけです。
 
これは、「真の神(聖霊によって宿り)が真の人(処女マリヤより生まれ)となられた」ことの表現なのです。そしてこれは理屈に合わないことなのです。教会の歴史は、この理屈に合わないことを信じ、イエス様を理屈に合うように解釈するものを異端として退けてきました。
 
神が人となられたのは、汚れた肉体、過ちばかり犯す肉体、不誠実、不遜、他人を裁き、人の罪を赦そうとしない自分中心の私たちが神様の愛に生きるためです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 (ヨハネの手紙一4章9−11節)
 

2018年10月7日 「主イエス・キリストを信じる
          軽やかさ」
 
聖書:フィリピの信徒への手紙 2章1−11節   説教:
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

   「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」の告白は、神の側からすれば「独り子」であり、私たち人間の側からすれば「我らの主イエス・キリスト」という告白です。

イエス様をどう告白するかは、いつの時代でも問われる教会の課題です。私たちは代々の教会と共に、神の「独り子」と告白しますが、現代でもそれを認めない人々がいますし、時の体制に敢然と立ち向かう愛の革命家という人もいます。その方が理性的です。しかし体制を変えても別の体制には別の悪があります。人間の根本的な救いは人となられた「独り子」による以外にないのです。
 
どのような意味で救い主なのでしょうか。
「主」とは、所有者、支配者で、神様に付けられる称号です。それまでは、私の主は私だと思って生きてきましたが、イエス様が真実の主でいたまいます。
「キリスト」は、メシヤ「油注がれた者」 の意味で、その働きを表します。王と祭司と預言者が任職される時、油が注がれました。イエス様は生涯を通して神のお心を語り、ご自身を全き犠牲として十字架にかかって私たちを執り成し、罪と死から私たちを守り、天に住まわせ給う真の預言者、祭司、王なのです。
偽り、不誠実、傲慢、自分中心、人の過ちを赦さない不寛容、こだわりと思い患い。こんな私たちが「主イエス・キリストを信じ」私の内にお迎えする時、そこから解放されます。
 
宗教改革者カルバンは、その働きの忙しさの中で、体が不調な時も「わたしの主は私ではない。主はイエス・キリスト」と言い続けてその身を整えたのでした。