説教 


2018年11月25日 「望みに生きる」     
聖書:ルツ記 1章1−22節 、4章11−22節   説教:  
1章1−22節
士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。 その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。
夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。
息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、 マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。 ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついてナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。 どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。

4章11−22節
門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。
その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。 ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。 オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。
 
  ルツ記は、モアブの血が混じると7代汚れると言われたモアブの女ルツが書物の名になっていますが、内容はルツの姑ナオミの物語です。
 
ナオミは、夫エリメレク、マフロンとキリオンの二人の子と一緒に飢饉に苦しむベツレヘムからモアブに移り住みました。ところがその移住は裏目に出ました。まず夫を亡くし、女手一つで二人の息子に嫁を取りましたが、その二人の子とも死別したのです。ナオミは故郷の飢饉が収まったことを知りベツレヘムに帰ることにしました。嫁のオルパを里に帰しましたが、もう一人の嫁ルツは「あなたの神はわたしの神、あなたの亡くなる所で…わたしは葬られたいのです」と言い、ナオミから離れようとしません。それで嫁ルツを連れて帰還したのですが、自分の人生はなんだったのかと身の不幸を嘆きながらの帰路だったでしょう。
「あなたはナオミではありませんか」と迎えた故郷の人々にナオミは言いました。「どうかナオミ(快い)などと呼ばずに、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」と無念さを口にします。
 
2章以下はそのナオミがナオミとされる話です。2章はボアズの畑でのルツの落穂拾い。3章はボアズとルツの婚約。4章はルツを含むエリメレクの家の贖い(零落した身分をもとに返すこと)と二人の結婚、オベドの誕生(その3代後にダビデが誕生)の物語です。
 
ナオミがナオミと成る為に名、荒っぽく計算すれば11年1ヶ月一日一晩かったのです。「あなたの神はわたしの神」といってお従いする時、時がくれば必ず実を結ぶのです。更に三代後ダビデが生まれ、千年後イエス様が生まれたのです。
これが神様の業の事実です。


2018年11月18日 「イースターの突き抜けた喜び」     
聖書:コリントの信徒への手紙T 15章1−20節    説教:  
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
 
  「三日目に死人のうちより甦り」
 
キリストの甦りは普通の人には信じられないことです。また、聖書はキリストがどの様にして甦ったかについては一言も触れず、「(旧約)聖書に書いてある通り甦られた」としか記していません。甦りが科学的に証明されたとしても(そんなことは決してないのですが)、それは理屈で納得するだけであって信仰をもつことではありません。物なら切り刻んで納得するまで探究できますが、人格は、最後は信じる以外ないのです。
 
キリストは仮死状態から蘇生したのではありません。十字架で死に、葬られ、死人の往く陰府に下り、甦られたのです。この事実の裏には、三つの意味があります。
@キリストの十字架は内面から見れば私達の贖いのためでしたが、外面から見ればファリサイ人、祭司長たちの陰謀の勝利でした。しかしキリストは甦ったのです。力の強い人、策が勝つのでなく、愛と義が最後には勝つのです。ここに私達の倫理行為の根拠があります(15:58)
A人間にとって死ほど確実なものはありません。キリストの甦りは、その死を打ち砕いたのです。死の牙を抜いたのです。神様は自然の中にも働き、歴史の中(時が神様の舞台です)にも働きますが、キリストを甦らせてくださったその中に、最もはっきり顕わされました(エフェソ1:20)。
Bキリストの十字架は誰もが認める愛の行為です。もし十字架で終わったのであれば、解きがたい謎です。実は愛の行為にはいつも悲しみの影がついて回ります。しかしキリストは甦らされ、そこに私達がキリストの贖いの業を信じる突き抜ける喜びがあります。
 

2018年11月11日 「死にて葬られ、陰府に下り」     
聖書:ペトロの手紙T 3章13−22節    説教: 
 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

  神の御子が死ぬはずはなく、十字架で亡くなったイエスは仮の姿であったという教え(仮現論)が教会にはありました。御子が人となられたことを認めないものです。その説に対して「キリストは処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り」と告白します。死んで葬られたことの中身は「陰府に下る」ことです。「陰府」とは死んだ人の行くところです。陰府とは「闇」から来たと言われます。そこには光が無く、希望もない世界です 。
 
詩篇編139篇の著者は「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。どこに逃れれば、御顔を避けることが出来よう。天に昇ろうともあなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」と歌いました。イエス様を知らない詩人がこんな慰めに満ちた言葉を語ることが出来たのか、奇跡です。
ペトロ(Tペトロ3:19)はキリストの陰府に下った意味を、福音を知らず、あるいはそれに背を向けて死んだ人にもその救いの光を届かせるためであったと証言しています。使徒信条はこのペトロの言葉を受けて告白されました。
 
私達は、自分の責任でしなければならないことと、委ねなければならないことのあることを知っています。既に亡くなった愛する者をキリストの御手に委ねられることは何と幸いなことでしょう。亡くなった人ももう一人ではないのです。
 

2018年11月4日 「死の陰の谷を歩むとも」  
聖書:詩編 23篇1−6節   説教:
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
  詩編23編は、聖書の中で最も愛されている個所の一つです。ここには難しい言葉も議論もありません。牧者である神様の支えと導きをいただいている喜びと、喜んで旅人を迎える幕屋の主人である神様のいる幸いが歌われています。
 
 「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる 。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正し い道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わ ざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです 。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなた はわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべ に油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」
 
この歌の背景は荒涼とした岩山であり、いつ命を狙われるかもしれない殺伐とした荒野です。私たちの人生そのものです。
 
死には4つの不安があります。第1は苦痛。一昔前まではある種の癌の末期は耐え難い痛みとの戦いでした。死に至るまでの不安です。第2は消滅。どんなに日記を書いて碑を建てても人は時共に忘れられてゆき、消滅する不安。第三は離別。どんなに愛し合っていても死によって引き裂から、二度と会えない離別の不安。第四は未知への不安です。死は他人事としては分かっても、自分の体験とはなりません。人が予習できない不安です。
信仰を持っていても私たちも死にます。その際の私たちの死は、イエス様によって罪のとげ(4つの不安)が抜き去られたものになりました。
 
私たちには牧者がいるのです。しかも大切なことは、私たちが牧者と共にいるのではなく、牧者が私たちと共にいてくださることです。