説教 


2018年12月30日 「心を注ぎだして祈る」      
聖書:サムエル記上 1章1節−20節     説教: 
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。
エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。 彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。
毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。 夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」
さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、 「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。 ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
  偉大な指導者ヨシュアの後、各地の豪族の士師たちの活躍の様子、心なごまされるルツに神様の祝福の継承の様子、その後のサムエル記はサムエルによって最初の王サウル、次の王ダビデが王として立てられ、その治世が記されています。サムエル記上 1章はサムエルの誕生の物語です。
 
ハンナには愛する夫はいましたが子供はありませんでした。夫の第二夫人ペニナは彼女を敵と見てそれを突いてハンナをいじめるのでした。
子が無いことは今では考えられないほど不幸なことだったのです。結婚して子が無いことは神様の恵みの外にあり、それでも女なのかとでも言われたかもしれません。ハンナはぺニナの意地悪だけなら耐えられたでしょうが、自分は神様の祝福から外されていると思い、それがいつまで続くか分からないこと、それがハンナの深い苦悩でした。自分は生まれてきて良かったのかと何度も自分の存在を問うたに違いありません。
しかし彼女には祈りがありました。こう祈ったのでした。「万軍の主、はしための苦しみをご覧下さい。はしためを心に留め、男と子をお授けくださいますならその子の一生を主にお捧げします」
祈りは恨みや愚痴を言うことではありません。藁人形と五寸釘は聖書とは無縁です。目先の夫の愛情を求めたのでもありません。
 
祈りは神様の奇跡に迫ることです。「神が今でも創造の業を続けておられることを信じられないなら、祈りはむなしい」のです。信仰は人生観でも理窟でもないのです。祈りは人を整えます。私たちには祈りがあるのです(詩50:15)。この祈って神様の業に与かります。


 

2018年12月23日 「人を根底から支えるもの」      
聖書:ヨハネによる福音書 1章1節−5節    説教: 
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
「初め」とは、時間的な初めも言いますが、起源、根本という意味での初めでもあります。「言」とは、ロゴスで、もちろん言葉ですが、単なるコミュニケーションの手段ではなく、法則、原理、根拠といった意味もあります。世界の初め、根源には神が世を愛するという決意あったのです。
ロゴスという言葉で表わされているイエス様は、神様と同質で、神様そのものなのですが、それでも神様と区別されるためにこのように記されています。
 
このヨハネ福音書の書き出しは、創世記を思い出させます。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…」 創世記がまとめられたのは、国が破れ、イスラエルの民がバビロンに捕虜として連れていかれた時でした。明日に少しの希望もない、混沌と闇が地を覆っていた時でした。ヨハネ福音書がまとめられたのも、90年代のドミチィアヌス帝が組織的にクリスチャンを迫害しだした時でした。
 
私たちの人生にも混沌と暗闇が覆っていると思える時があります。周囲の状況からは希望は持てません。しかし、私たちは決して恐ろしい運命や宿命のもとにあるのではありません。一体私たちは何を信じて生きたらいいのでしょうか。初めに言があったのであって、根源には神が世を愛するという決意があるのです。ここに私たちの生きる根拠と希望があります。
 
信仰は暗い現実から神を見ることではなく、神の支配から現実を見ることです。
  

2018年12月16日 「神様の働きとしての聖霊」     
聖書:ヨハネによる福音書 14章1節−14節   説教: 
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
  聖霊とは神様の働きです。生ける神様そのものが私のうちに働きかけていて下さる。これを信じるのが「我は聖霊を信ず」です。
私たちは「父なる神を信ず」と告白します。不正がはびこり、苦しみと悲しみの中で、どうして神様を「天地の造り主、全能の父」と告白できるのでしょうか。
この答えが「我らの主イエス・キリストを信ず」です。私たちのための受肉、十字架の贖罪、復活、昇天、執成、再臨なしには父なる神様への告白はありません。
しかしこのキリストへの告白はなぜ出来るのでしょうか。第一イエス様の出来事は二千年前のことですし、日本とは関係のないイスラエルのことです。ここに聖霊の働きがあります。教会の証言と聖書によって私たちはキリストの業に目が開かれるのです。それは聖霊によることです。
すると告白の順序では、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神となりますが、私たちの認識の順序では、聖霊の働きによってキリストが明らかにされ、キリストによって父なる神様が告白出来るのです。
 
この聖霊の働きは、ヨハネ福音書14章によればイエス様に目を開かせ、信仰者を導いて信仰の成熟へと導き、伝道へと導きます。、
聖霊体験は一人山に籠もって体得する宗教的な体験ではなく、教会を通しての体験です。教会に連なり続けるかぎり、そして信仰に立とうとすると、必ず聖霊なる神様は私たちを支え、導き、神様の御業にあずからせ、救いを全うしてくださいます。
 

2018年12月9日 「決着がつけられる時」     
聖書:コリントの信徒への手紙U 5章1節−10節    説教: 
 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
  「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」
キリストは処女マリヤによって私達のもとに来て下さり、救いの業をなし終えて天に帰られました。そうしてもう一度私達のところに来てくださいます。それが再臨で、そのときが終末です。
世に終末論があります。食料不足と資源の枯渇と環境破壊などによるこの世の終焉です。聖書の終末は違います。神様の創造の完成としての終末です。それは完成なのですから、罪と悪は裁かれ、あの涙この悲しみの意味が明確にされる時です。
 
一体終末を抜きに、私達は人生やこの歴史は語れるのでしょうか。確かに歴史は審判であり、時は悪の仮面をはがします。しかし何と多くの悪が不問に付され、正邪がふるい分けられないことがあることでしょう。
 
私たちはキリストの再臨を信じています。最後の裁きがなければその歴史の意味も倫理も語れないからです。その際私たちは裁判官の立場に立ち、自分は正しいとの前提に立っていないでしょうか。しかしうまくやっているのは私たちも同じなのです。
ヨハネの黙示録は全巻をあげてキリストの再臨、終末の完成を記しています。信仰に生きる者を励ますために時々最後の完成の様子を垣間見せます。「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』… 長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」(ヨハネ黙示録7:13−14)キリストの血によって白くされた衣を着て神様の前に立つのです
 

2018年12月2日 「私に注がれている執り成し」  
聖書:ローマの信徒への手紙 8章26節−30節   説教:
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
  「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」
使徒信条の御子に関する告白は三つの時制からなっています。私たちの告白している文語でははっきりしませんが、口語(讃美歌93−4)ではよくわかります。「主は聖霊によって宿り…天に昇り」が完了形。「全能の父なる神の右に座し給えり」が現在形。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁き給わん」が未来形です。つまり、イエス様が私たちのためにしてくださったこと、現在何をしてくださっているか、やがて何をしてくださるかです。
ここから明らかになることは、キリストが救いの業を終えて天に昇り(帰り)、やがてかしこから再び私たちのもとに来て下さる、その中間が現在の私達の時代です。それは教会の時代、聖霊の時代といわれていることです。
 
「右」とは、場所以上に力、働きを表します。「座する」とは持続性です。現在キリストは、天で、執成という仕方で力を行使しておられるのです(使徒7:55、−ここでのイエス様は教会の危急存亡の時じっと座っておられず思わず立ち上がって執り成して下さっているのです【渡辺善太】−ロマ 8:34)。
 
私たちは弱いのです。人の支えの中で生きます。自分が支える以上に支えられ、子供のことで往き詰まる時、自棄を起こした時、どれだけの慰めと励ましを受けたことでしょう。しかし最大の支えは神様です。神様の支えは、空中を飛んでくるのではありません。教会により、人を通し、御言葉によって与えられます。私達が信仰に立とうとするとき、イエス様のあとに続こうとするとき力をお与え下さるのです。