2019年1月27日 「僕 聞く、主よ語り給え」 | ||
聖書:サムエル記上 3章1節ー4章1節 | 説教 | |
少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。 サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」 エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」 サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。 |
「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(3:1) 「主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」(4:1) 3章と4章の間に有名なサムエルの召命の話があります 。 彼は「サムエルよ」と呼ぶ神様の声を聞いたのです。アブラハムもモーセも、ペトロもザアカイも皆神様から呼び掛けられました。自分への神様からの語りかけを聞くことが信仰です。聖書学者ベンゲルは言いました「聖書は一人称で読みなさい。あなた全体を本文に当てはめ、事柄の全てをあなたに当てはめなさい」と。 一人称で読むとき「どうぞお話し下さい、僕は聞いております」と神様の前に立たされます。祈りは訴えもありますし願望もあります。しかし最後は神様のお心を聞くのです。神様を知らない人の祈りは「僕は語ります、主よお聞きください」かもしれません。 「主よ、お話し下さい」と聞くサムエルに神様は耳が二つともなくようなことを言われます。もっとも自分がふれたくないことで、避けてはいけないこと、小さな声でささやくそれを処理することで、神様の業は進みます。 |
|
|
||
2019年1月20日 「約束された永遠の生命」 | ||
聖書:コリント信徒への手紙T 15章50ー58節 | 説教 | |
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 |
死には刺があります。罪の刺です。私達が死を恐れるのは、死が未知のことであったり、離別であったりすることもあるでしょうが、それ以上に肉体を宿している時に犯した罪が絡みついているからです。 しかし十字架による罪の赦しの恵みに与っている私たちは、地上の生涯を終えた後、その国籍のある天に移されます。罪の赦しと天国の関係をシカと知るべきです。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエスキリストが救い主としてこられるのをわたしたちは待っています。キリストは、…わたしたちの卑しい体をご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フイリピ3:20−21) 魂だけが生き続けるのではありません。罪を犯し、もてあまし、人に迷惑をかけるこの身体が甦ります。やがての時、私の一部ではなく身も心も霊も体も、私の全てが完成するのです。 『昨年の暮れ、87歳で召天した義母は肝臓がんだった。ホスピスで疼痛は抑えられたが最後は気の毒だった。肉体の死もさることながら「魂の死の残酷さ」見舞客や家族の手を放そうとせず「さびしい」と言った。無神論者だったが、クリスチャンの作家須賀敦子の「終点に誰もいないより神様がいた方がいいような気がする」との文章に病床で深くうなずいていた。洗礼を受け安らかに永眠したが、私に宿題を残した。今は死はどこか人ごとだが、必ず訪れる。秒読みの段階になるとすべてが変わる。恐怖、さびしさ、無念との戦い「魂の痛みは」体の痛み以上だ。』1月14日朝日新聞【声】より 永遠とは時間の積み重ねではありませんし、無限でもありません。永遠なる方は神様だけで、その神様に与る生命が「永遠の生命」です。それは死んだ時与えられるものではなく、イエス様を信じた時与えられるものです。地上にある時はその赦しと愛に生き、死んでもその生命は終わらず、神様の支配の中に生き続ける生命です。私たちにはこれが約束されています。 |
|
|
||
2019年1月13日 「罪の赦しという救い」 | ||
聖書:ローマ信徒への手紙 8章31ー39節 | 説教: | |
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 |
罪はハマルティアと言いますが、的外れ、脇道にそれるが原意です。子供が万引きをした時、問題はお金で返すことではありません。万引きをしてしまう生き方、生きる姿勢の問題なのです。この罪は、法的な罪ではなく、人との関わり以上に神様の前でとらえられます。罪とは、神を神とせず、己の腹を神とする無神性と自己中心です。 この罪はどうしても返さなければならない負債で、償いが必要です。これがはっきりしないので、キリストの十字架がはっきりしません。 人が生きるためには衣食住が必要なことは当然ですが、それさえあれば生きられるものではありません。喜びは分かち合うと二倍三倍になり、苦しみは分かち合えば二分の一、三分の一になります。人の生きがいや喜びは物にあるのでなく、人との関係にあります。人は愛し愛され、支え支えられて初めて人として生きます。その関係を壊すのが罪であり、それを修復するのが赦し、愛なのです。 神様はイエス様によって私達の罪を赦し関係を回復してくださいました。聖書の救いは関係の救いなのです。罪赦されて、天下晴れて神様を味方として生きてゆける、きっと道が拓かれることを信じて勇気と希望をもって感謝の内に生きられる、神様の赦しと愛の中で隣人との愛と赦しに生きられる、ここに罪の赦しという救いがあるのです。(ローマ 8:31−39) |
|
|
||
2019年1月6日 「キリストの体なる教会を信ず」 | ||
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章7ー16節 | 説教: | |
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです |
使徒信条では「聖霊を信ず」の後「聖なる公同の教会を信ず」「聖徒の交わりを信ず」となります。罪の赦しを信じるならよくわかりますが、教会を信じると言ういい方はあまり馴染みません。しかし、ここに信仰のカンドコロがあります。 「聖」とはそれ自体の聖よさではなく、神様に属するものが聖です。「公同」とは、カトリックという言葉ですが、それは遍在的、全体的ということで、国籍、民族、階級、性別の違いを越えて、教会は普遍的存在というのです。「教会」とは、建物でもなく、組織でもありません。キリストを主と仰ぐ群れ、集いです。 「聖徒の交わり」とは、天に召された聖人たちとその功績を分かちあうというカトリック教会の解釈ではなく、「聖なるもの―聖餐」を分かち合う共にいる仲間を意味します。 聖霊の告白の後でこの教会への告白がなされます。聖霊は私達を信仰に導き、支え、全うしてくださいます。神様の舞台が時であるように、聖霊の舞台は教会です。そのキリストの体なる教会に連なり続けて(ヨハネ15:1−5)信仰のよろこびにあずかり、信仰を全うします。この教会抜きの信仰は、消滅するか逸脱します。それは事実の示すことです。 教会がイエス様の救いの確かな拠点であること。キリストが教会のかしらであることを牧師がまず信じ、教会以外に救いはないと信徒が固く信じて連なり続けるところから、神様の救いの業は続きますます。 |
|
|