説教 


2019年2月24日  「手当たり次第なんでもしなさい」     
聖書:サムエル記 上 10章1節−27節     説教: 
サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。 今日、あなたがわたしのもとを去って行くと、ベニヤミン領のツェルツァにあるラケルの墓の脇で二人の男に出会います。二人はあなたに言うでしょう。『あなたが見つけようと出かけて行ったろばは見つかりました。父上はろばのことは忘れ、専らあなたたちのことを気遣って、息子のためにどうしたらよいか、とおっしゃっています。』 また、そこから更に進み、タボルの樫の木まで行くと、そこで、ベテルに神を拝みに上る三人の男に出会います。一人は子山羊三匹を連れ、一人はパン三個を持ち、一人はぶどう酒一袋を持っています。 あなたに挨拶し、二個のパンをくれますから、彼らの手から受け取りなさい。それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに向かいなさい。町に入るとき、琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖なる高台から下って来る預言者の一団に出会います。彼らは預言する状態になっています。 主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。 わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。」
サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。
ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。以前からサウルを知っていた者はだれでも、彼が預言者と一緒になって預言するのを見て、互いに言った。「キシュの息子に何が起こったのだ。サウルもまた預言者の仲間か。」 そこにいた一人がそれを受けて言った。「この人たちの父は一体誰だろう。」こうしてそれは、「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざになった。 サウルは預言する状態からさめると、聖なる高台へ行った。
サウルのおじがサウルと従者に言った。「お前たちはどこへ行っていたのだ。」サウルは答えた。「ろばを捜しに行きましたが、見つからなかったので、サムエルのもとに行きました。」 サウルのおじは言った。「サムエルがお前たちに何と言ったか、話しなさい。」 サウルはおじに答えた。「ろばは見つかったと教えてくれました。」だがサウルは、サムエルの語った王位のことについては、おじに話さなかった。
サムエルはミツパで主のもとに民を呼び集めた。 彼はイスラエルの人々に告げた。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と。 しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい。」
サムエルはイスラエルの全部族を呼び寄せた。ベニヤミン族がくじで選び出された。 そこでベニヤミン族を氏族ごとに呼び寄せた。マトリの氏族がくじで選び出され、次にキシュの息子サウルがくじで選び出された。人々は彼を捜したが、見つからなかった。 そこで、主に伺いを立てた。「その人はここに来ているのですか。」主は答えられた。「見よ、彼は荷物の間に隠れている。」
人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。 サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」
サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記して主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した。 サウルもギブアの自分の家に向かった。神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。 しかしならず者は、「こんな男に我々が救えるか」と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。
  サムエル記は、サムエルが最後の士師として、また初めの預言者としての活動と、サウル、ダビデに油を注いで王の任職し、任職された二人の王様に記録です。


イスラエルの人々はサムエルのもとに来て王様を立ててほしいと訴えました。ペリシテ人(海洋民族でパレスチナという土地の語源)がイスラエルの西海岸に定住してこの脅威が大きくなったこと、またサムエルが年を取り二人の息子が不正な道を歩んでいることが理由です。サムエルは王様を立てることの懸念(徴兵、強制労働、税金)を語りますが、それでも人々は王を求めました。


サウルはいなくなったロバ[当時のロバは荷物を運び、人を乗せる手段として高級車にも匹敵する財産でした]を父の命を受けて捜しに行き、最後にサムエルのもとを訪ねました。サムエルはロバについては放念してよいと言い、サウルは王として油注がれて任職されました。彼には驚天動地のことでした。
サムエルは言いました。「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。」


サウルは初代の王としてその務めを果たしました。ギレアドの人々をアンモン人の脅威から救いだしたのです。その時は、彼は自分の小ささを知り、自分の中で神様が大きくなっていたのです。


彼は、神様の導きを信じて「あなたは手当たりしだい次第なんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです」(口語訳)のようにふるまったのです。新しくことを始めようと人にはこれが求められ、また人生にはこのようにしなければならない時があるのです。神様の導きを信じて。



 

2019年2月17日  「救いにふさわしく備えをする」    
聖書:マルコによる福音書 1章1節−8節     説教: 
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


  準備のないところに実りを期待することは出来ません。イエス様の救いのために準備をしたのが、バプテスマのヨハネです。
 
ユダヤ人は生まれてから8日目に割礼をうけ、神の民として生きています。それをしていない異邦人がユダヤ教に改宗する時には洗礼を受けます。ヨハネはユダヤ人だからと言って神の前に清いのではない。「悔い改めのしるしの洗礼をうけよ」と火を吐く勢いで叫びました。それを聞いた人々は信仰の民を否定したと怒るどころか続々とヨハネのもとに来て、罪の救いのための洗礼を受けました。
キリスト教と科学の関係、キリスト教と文化の関係、聖書についての知識や奇跡の理解、それらもないがしろには出来ませんが最大で不可欠の準備が罪の問題です。知識ではなく良心の問題です。あなたの生き方は本当にそれでいいのか、神様の前でごまかしはないのかと問われることです。罪の自覚のないところに罪の赦しの福音、本当の生き方はありえないからです。                               
ヨハネは更に言いました。「わたしの後から来る方は…聖霊で洗礼をお授けになる」
自分の間違いがわかるだけでは駄目なのです。ではどう生きたらよいかそれが分からないからです。ヨハネはイエス様を指し示します。イエス様を信じることは聖霊の導きですが、イエス様を信じることでどう生きたらよいか聖霊の導きをいただけます。
 
自分の罪を認めない不誠実では救いを自分のものとできません。しかし自分の罪を認めるだけでもなお不十分です。罪を認めてイエス様を信じて生きる、ヨハネはこれを指し示しました。
 

2019年2月10日 「神の子イエス・キリストの
          良きおとずれ」
 
   
聖書:マルコによる福音書 10章35節−45節    説教: 
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

  マルコによる福音書は、60年代、イエス様を直接知る人が次々と亡くなり、新しくイエス様を信じる人たちのために、簡潔にイエス様のご生涯を書いたものです。
マルコ福音[喜ばしいおとずれ]書は、いわゆる伝記ではありません。何をお教え下さったかも記しますが、それ以上に何をなさったか、その歩みを記します。30歳までのことは記さず、約3年の公生涯、分けても最後の一週間に3分の1を当てています。つまり喜ばしいおとずれとは、イエス様の十字架と復活によってもたらされたものであることを訴えたいのです(それによって私たちは神様に結びつくことが出来ました)。
 
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:43-44) このお言葉は、イエス様が何のためにその生涯を歩んでおられるかを語られたもので、マルコによる福音書の中心です。
 
私たちは何とか人の上に立ち、人に仕えられたいと思います。しかし人に仕え、人を支えることに大きな価値があることを、イエス様はお教えくださいました。
信仰を持つということは価値観が変わることです。人の上に立つことに価値があると思っていたところから、仕えることの価値を知ることです。生き方がひっくり返ることです。
 

2019年2月3日 「神の恵みの見える印」  
聖書:コリントの信徒への手紙T 11章23節−26節   説教:
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


  教会は「福音を正しく宣べ伝え、バブテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行う」ところです。これは二つのことを言っているのではなく、神様の恵みを伝える二つの手段を言っています。「語られる神の言葉」(福音を正しく述べ伝える説教)と「見える神の言葉」(聖礼典の執行)の二つです。
 
「バブテスマ」 は生涯ただ一度受ける印です。洗礼とはバプティゾー(浸す)からきており、水に浸しこまれる時古い私は死に、そこから引き上げられる時新しい私に生かされます。洗礼はキリストを知るまでの古い肉の私の死と、キリストにある新しい生命の印です(ロマ6:3−4)。キリストが十字架で死に、新しく神に生かされたことが、洗礼によって私の上にも起こるのです。
 
「聖餐」は生涯に何度も受ける印で、あの十字架の赦しと愛の恵みに生き続けるために、イエス様がパンを取り「これはあなたがたのためのわたしの体」、杯も同じようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約」と定めて下さいました(Tコリント11:23−26)。それを、信仰を以て受けるたびに、この身が生けるキリストとの交わりに入れられます。
 
ある信徒が牧師のところに来て言いました。「自分には神様の恵みが分かりません」と。牧師は足元を流れる川を示して「私たちにはあの偉大な山ユングフラウがいつも見えているわけではない。曇ったり雨だったり霧で見えなくなる時もある。でもこの川はユングフラウから流れてきているのです」
私たちの生涯には、信仰に燃えるときもあれば、慣れと倦怠で陰りが生じるときもあります。神様の恵みは、私の信じ方や捉え方で変化するものではありません。自分の手の中にしっかり握ったり自分の熱心で立ったり倒れたりするものではなく、私たちが、いつでも、どんな時でも神様の恵みの中で生きることが出来るために、この身に印し、この身に味わう「見える印」を定めてくださいました。ここに信仰の確かさがあります。