説教 


2019年3月31日 「救いの完成      
聖書:サムエル記上 11章1-15節   説教: 
さて、アンモン人のナハシュが攻め上って来て、ギレアドのヤベシュを包囲した。ヤベシュの全住民はナハシュに言った。「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます。」 アンモン人のナハシュは答えた。「お前たちと契約を結ぼう。ただし、お前たち全員の右の目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう。」
ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます。」 使者はサウルのいるギブアに来て、事の次第を民に報告した。民のだれもが声をあげて泣いた。
そこへ、サウルが牛を追って畑から戻って来た。彼は尋ねた。「民が泣いているが、何事か起こったのか。」彼らはヤベシュの人々の言葉を伝えた。 それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、 一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。 サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルが三十万、ユダが三万であった。 彼らはヤベシュから送られて来た使者に言った。「ギレアドのヤベシュの人々にこう言うのだ。『明日、日盛りのころ、あなたがたに救いが来る。』」使者が帰って来てそう知らせると、ヤベシュの人々は喜び祝った。ヤベシュの人々は言った。「明日、我々はあなたたちのもとに出て行きます。よいようにしてください。」
 
翌日、サウルは民を三つの組に分け、朝の見張りの時刻にアンモン人の陣営に突入し、日盛りのころまで彼らを討った。生き残った者はちりぢりになり、二人一緒に生き残った者はいなかった。
 
民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」しかし、サウルは言った。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」
 
サムエルは民に言った。「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」 民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた。それから、和解の献げ物を主の御前にささげ、サウルもイスラエルの人々もすべて、大いに喜び祝った。
  ここには王様として立てられたサウルの初仕事の様子が記されています。
 
イスラエルの東に住むアンモン人が、ギレアドを包囲したのでした。ギレアドの人々は和睦を申し入れましたがアンモン人は全員が右目をえぐりだせと言い、初めからイスラエルをなめきって侮辱したのでした。
ギレアドの人々は窮状を全イスラエルに訴えますが、イスラエルの民にはその苦難を解放する力はなく、みな声をあげて泣き悲しみました。当時イスラエルはペリシテ人に苦しめられており、武器さえろくに持っておらず、鍬に刃をつける時にはペリシテ人の許可が必要だったのです。ペリシテ人の敵意は分かっていました。アンモン人はアブラハムの甥のロトの子孫で血のつながりがあります。近親憎悪で、ここに問題の深刻さがあります。(マタイ18:21-35)
 
牛を追って畑から帰ったサウルはそれを知ると、アンモン人への怒りとただ泣いているイスラエル人の不甲斐なさを怒り、神の霊が激しく彼に下り、牛を屠って全イスラエルにそれを配りましました。サウルの招きに応じなければこのようになるという脅しもあったのかもしれません。「民は主を畏れて一人の人のように出てきて」総勢33万人でアンモン人の脅威を払いのけたのでした。
 
荷物の陰に身を隠していたサウルが、神様の霊に生きる時、大きな業がそこに起こります。主を畏れることがそこにあるとき、考えられない神様の御業がそこに起こります。
中にはサウルを王として認めない者もいましたが「今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われた」のだからと言って神様を礼拝する。そこで彼は彼に快く思っていない者も含めて全ての民を受け入れました。問題は何処を見ているかです。自分の手柄、相手の非、それも事実ですが本当は国が立つことだったはずです。その基本を神様の前で整えられます。これで彼の業は完成し、名実ともに王様となりました。


2019年3月24日 招きに応える     
聖書:マルコによる福音書 1章16節−20節     説教:  
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
 
  ここは4人の弟子がイエス様に従った記事です。ルカ(5章)、ヨハネ(1章)にはどのようにして弟子がイエス様に従ったかが詳しく記されていますが、マルコはそれらを一切省いて、イエス様が「わたしについて来なさい」と招き、弟子たちがそれに応えたことだけを記しています。つまり、信仰を持つということはイエス様の招きに私がこたえる、それに尽きるということです
のしかかるような神様の愛の支配がイエス様によってもたらされたのです。このことは、聞きおくだけでは自分のものとはなりません。何事でもそうですが、語られたとおりに一歩を踏みだして、自分のものになります。四人の弟子の召命は、その実例です。
 
その際、何か特別なことをしてイエス様に従うのではありません。漁師が網を打つ。当然のことです。大工が網を打つのではありません。そこでイエス様に従うのです。商人があきないをし、主婦が家事をし、母親が育児をする。何か特別なところで従うのではなく、そこで主に従うのです。
そこは何の変哲もない毎日です。しかしまたなんと多くの涙、苛立ち、失敗のあることでしょう。ここで神様の愛の支配に身を委ねるのです。
もう一つ大切なことは、一度「網」を捨てることです。イエス様に出会うまでは生きてきたと思っていました。持っていたと思っていました。しかし、実は託されていたのです。仕事も家庭も自分の人生も。信仰をもつとは、自分の持っていたと思うものを改めて人生の主から托されていることに気付くことです。この切り替えがどうしても必要です。
信仰がはっきりしないのは、このことがはっきりしていないからかも知れません。
 

2019年3月17日 私たちを覆っている神の愛     
聖書:マルコによる福音書 1章14節−15節     説教: 
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
  「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」イエス様の第一声です。[真実な意味で、全新約聖書はこの一句の注解である」と新約学者のハンターは言っています。
 
神様の定められた決定的な「その時」が来たのです。「神の国」とは、場所よりむしろ支配です。「近づく」とは、遠くからだんだん近づくのではなく、ここに、のしかかるように来ていることです。神様が人を救うために定められた時が来て、神様の愛の支配がここに来ているということです。
「悔い改める」とは、失敗した自分の過去を反省したり悔いることではありません。「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)ことです。トルストイは「回れ右」をすることだと言いました。自分の視野と才覚だけ で生きていた者が、神様の方向にむかって生きること、自分中心から神中心に生き方が変わることです。
ヨハネは罪人への迫り来る神の怒りから悔い改めを説きました。イエス様は罪人への迫り来た愛から悔い改めを説きます。
 
天道是か否か。生まれながらの体のハンディや突然のアクシデント。私たちは時として、ぞっとするような人生の深みを覗きます。その際、苦しみや悲しみを、暗黒や罰からでなく、愛の支配の中で見なおしていますか。のしかかるような神様の愛の支配が、イエス様によってもたらされたのです。
暗い現実から神様を見るのではなく、神様の愛の支配から現実を見ることが信仰です。またこのことは、聞きおくだけでは自分のものとはなりません。何事でもそうですが、語られたとおりに一歩を踏みだして、初めて自分のものになります。四人の弟子の召命は、その実例です。
 

2019年3月10日 誘惑を退ける     
聖書:マルコによる福音書 1章12節−13節    説教: 
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
  イエス様は洗礼を受けるとすぐ、40日間荒れ野でサタンの誘惑を受けられました。なにをなし、何を語ることが福音なのか、福音宣教に先立ってそれを探られたのでしょう。サタンの誘惑によって、これは違うという否定の形で解答を得られました。
 
第一は「神の子ならこれらの石をパンになるように命じたらどうだ」というパンを与える誘惑です。肉体をもつ私たちはパンがなければ生きられませんが、パンさえあれば人として生きられるものでもありません。        
第二は「神の子なら(神殿の屋根から)飛び降りたらどうか」という奇跡への誘惑です。あっと驚かすような救いや、神様との信頼関係を、奇跡をもって証明するような救いではないのです。
 第三は「もしひれふして拝むならこれ(世の富)をみな与えよう」という世と妥協する誘惑です。目的は手段を正当化しないのです。
 パンと奇跡と妥協は効果的ですが一時的です。派手ですが上辺だけです。つまり人の救いは経済的、宗教的、政治的救いではないという確認です。 
  
私たちの住む世界も荒れ野であり、野獣が住む世界です。生きることは誘惑を一つ一つ乗り越えていくことです。そこから本当の生き方、完成へと導かれます。世の中にうまい話などありません。苦労さえすればいいと言うのではありませんが、本当のことは苦労なしにはできません。つらくはあっても神様を真実神とあがめ、服してゆく。イエス様が歩んでくださり与えてくださる救い、それに私たちはお従いする。十字架の罪の赦しと愛の道に歩むのです。
 

2019年3月3日 わたしの愛する子  
聖書:マルコによる福音書 1章9節−11節   説教:
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
  イエス様は公の生涯に入る前にヨハネからバプテスマを受けました。
 
なぜイエス様が洗礼を受けられたのか。イエス様にも罪の赦しが必要だったのではありません。イエス様はヨハネの活動を高く評価され(マタイ11・11)、ご自分が洗礼を受けることでヨハネの運動を承認されたのでしょう。第2の理由はナザレで育たれたイエス様にとって公の生涯に入られる区切りの時、神様からの任職の時でもあったことでしょう。
しかし最大の理由は、イエス様が罪人の立場に立たれたことでした。なぜ神の独り子が馬小屋に誕生し、罪なき御子が十字架にかかられたのか、これらはみな同じ理由からです。イエス様の洗礼は私たちのためでした。罪人は罪の赦しはできません。罪のないイエス様が罪人の立場に立たれ、救いの業の準備をなさったのです。 
 
すると天が裂けて聖霊が鳩のように下り、「あなたはわたしの愛する子」との御声がありました。イエス様の洗礼を神様も承認してくださったのです。  
 
私たちが洗礼(古い私が死んでキリストにある新しい生命に生きること)を受けることで、畏れ多い事ですが、イエス様の上に起ったことが私たちの上にも起るのです。
洗礼は私の決心だけではありません。神様がわたしの決断を承認してくださっているのです。そうでなければ、それがどんなに熱心であってもスターを追っかけるのと同じで、自分の独りよがりです。
自分を卑下しても、愛想をつかしても、神様は「あなたは私の愛する子」と言って下さっているのです。洗礼で与えられる自分の尊さに目が開かれていますか。