説教 


2019年4月28日 「活ける神を信じて」     
聖書:サムエル記上 14章1節−23節      説教:  
ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。」ヨナタンはこのことを父に話していなかった。 サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼のもとにいる兵士はおよそ六百人であった。 そこには、エフォドを持つアヒヤもいた。アヒヤは、イカボドの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である。兵士たちはヨナタンが出て行くのに気がつかなかった。
ヨナタンがペリシテ軍の先陣の方に渡って行こうとした渡しには、こちら側にも向こう側にも切り立った岩があった。一方はボツェツと呼ばれ、他方はセンネと呼ばれる。 一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」
従卒は答えた。「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。」 ヨナタンは言った。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。 そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。 もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」 こうして、二人はペリシテ軍の先陣に姿を見せた。ペリシテ人は言った。「あそこにヘブライ人がいるぞ。身を隠していた穴から出て来たのだ。」 先陣の兵士たちは、ヨナタンと従卒に向かって呼ばわった。「登って来い。思い知らせてやろう。」ヨナタンは従卒に言った。「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ。」 ヨナタンは両手両足でよじ登り、従卒も後に続いた。ペリシテ人たちはヨナタンの前に倒れた。彼に続く従卒がとどめを刺した。
こうしてヨナタンと従卒がまず討ち取った者の数はおよそ二十人で、しかも、それは一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所で行われた。 このため、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、先陣も遊撃隊も恐怖に襲われた。地は揺れ動き、恐怖はその極に達した。
ベニヤミンのギブアにいるサウルの見張りは、人の群れが動揺し、右往左往しているのに気づいた。 サウルは彼のもとにいる兵に命じた。「我々の中から出て行ったのは誰か、点呼して調べよ。」調べると、ヨナタンと従卒とが欠けていた。サウルはアヒヤに命じた。「神の箱を運んで来なさい。」神の箱は当時、イスラエルの人々のもとにあった。 サウルが祭司に話しているうちにも、ペリシテ軍の陣営の動揺はますます大きくなっていった。サウルは祭司に、「もうよい」と言い、
彼と彼の指揮下の兵士全員は一団となって戦場に出て行った。そこでは、剣を持った敵が同士討ちをし、大混乱に陥っていた。 それまでペリシテ側につき、彼らと共に上って来て陣営に加わっていたヘブライ人も転じて、サウルやヨナタンについているイスラエル軍に加わった。 また、エフライムの山地に身を隠していたイスラエルの兵士も皆、ペリシテ軍が逃げ始めたと聞くと、戦いに加わり、ペリシテ軍を追った。こうして主はこの日、イスラエルを救われた。戦場はベト・アベンの向こうに移った。
  サウル王の次の戦いはペリシテ人との戦いでした。サウル王はギルガルの第一戦に勝利すると3000人の兵士を正規軍として組織し、そのほかの者を予備役にしました。
イスラエルの動きを警戒していたペリシテ人は戦車3000両、騎兵6000頭、民兵を浜辺の砂のように集めました。これを目にしたイスラエルの兵は洞穴に隠れ、岩陰やため池に身をひそめ、正規軍は600名ほどに減ってしまいました。
この頃海洋民族のペリシテ人(パレスティナの語源)は鉄器をもってイスラエルを支配しました。鉄の剣をもっていたのは王のサウルと王子のヨナタンだけだったのです。
 
ペリシテ人を前にイスラエルの民は恐れて逃さリますが、ヨナタンは言いました。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」彼と僕の二人は果敢にペリシテの人を攻撃しました。ここにヨナタンが見ていたもの、信仰の姿があります。
 
谷を挟んでその様子を見ていた王様のサウルはここに戦いの機を見ていました。ところが戦いのために祈ってくれるはずの祭司サムエルが来ないのです。戦いにはチャンスがあると考えたサウルはサムエルにしかできない犠牲を自分で捧げて、戦いにでてしまいした。神様の時を待てず、自分の判断を優先したのです。その後サムエルは来るのですが、自分の判断に固執して、その非を認めません。
 
ヨナタンの見ていたものとサウルの見ていたもの。現実は厳しいのです。しかし私の可能性を補完することが信仰ではありません。現実を無視はしませんが、現実に拘泥もしません。現実の世界、数の世界の背後の神様を崇めるところにある輝きを見ているかどうかです。

 

2019年4月21日 「神に出来事」      
聖書:マルコによる福音書 16章1節−8節     説教: 
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
  イエス様の復活にふれた婦人たちは戸惑い恐れました。加えて聖書にはイエス様の復活について納得のいく説明はありません。天使が現れて、空虚な墓を示してキリストの復活を宣言しただけなのです。さなぎが孵化するような状況説明はないのです。
イエス様の復活を理性で納得させようとしても無理です。納得できることと信仰は違います。納得したのであれば信じる必要はありません。物ならば切り刻んで納得するまで調べることが出来ますが、人格の関係は最後は信じる以外ないのです。見たので信じますが、見ないでも信じられるのはもっと幸いなのです。(ヨハネ20:29)
 
聖書の信仰の起こりは、私たちの認識と順序が逆です。イエス様のお誕生、公生涯、十字架、復活と私たちは認識していきますが、全く逆です。弟子たちは、そして聖書では絶対である死をひっくり返すイエス様の復活があり、そこからあの十字架は何だったのかとその意味が知らされ、そして公生涯のイエス様の言動、最後にどのようなご誕生だったのかと目が開かれていったのです。マルコは初めて復活に触れた戸惑いを記しています。
 
ではその十字架の意味は何だったのか。イエス様の十字架は比類ない愛の話です。私たちの周囲にある愛の話はいつも暗い影がついて廻ります。愛の話であればあるほど悲しい話でもあります。しかし私たちのために十字架に掛けられたイエス様は甦えらされたのです。ここに私たちの救いの突き抜ける喜びがあります。クリスマスは神の愛が明らかになった時ですが、イースターは神様が生きて働いていることが明らかになった時です。
 
この神様に「ガリラヤ」で出会います。神様を信じる者より信じない者のほうがはるかに多く、逃げだしたくなるような問題や課題のある生活の場、私の「ガリラヤ」で出会います。そこに甦りの主はおられるのです。

2019年4月14日 「暗黒を突き抜けて平安へ」     
聖書:マルコによる福音書 15章33節−47節    説教: 
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
 
既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

  イエス様は十字架の上で6時間苦しまれ、地上の生涯を終え、墓に葬られました。
マルコは押さえた筆でその“事実”を伝えます。感情をさしはさまない描写だけに、イエス様の様子がひしひしと伝わってきます。福音書はイエス様の上に起こった事実を伝え、パウロの手紙やヘブライ書はその事実の意味を記します。


しかし福音書に十字架の意味が記されていないのではありません。マルコ福音書の著者は二つの異変を記します。「昼の十二時になると、全地は暗くなり」と、イエス様が息を引き取られた後、「神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた」ことです。マルコはこの二つを記すことで、イエス様の十字架の“意味”を伝えたかったに違いありません。


「暗さ」とは、神に捨てられる暗さです。神をもたない暗さです。信じるべき方をもたず、人生の夕暮が近づき、体力に陰りが見え始め、一体自分はどこに向かっているのか、私たちの知る暗さはその片鱗にすぎません。神様に捨てられ神なき者の暗さです。
イエス様が亡くなられると神殿の幕が上から下まで避けたのです、その幕は神殿の一番奥の至聖所の垂れ幕で神様と人を隔てる幕でした。イエス様のして下さったことにより、神様と人を隔てるものが取り去られたのです(ヘブライ9章)。信じる方をもつ平安と幸いの道が開かれたのです。


レリジョンを日本では宗教(崇高な教え)と訳しました。しかしレリジョンは二つのものを一つに結び合わせることなのです。イエス様によって神様と人が結び合わされることなのです。
 聖書の信仰は、熱心に神様のお心に従い自分を整えることではありません。神様が私の救いのためにどんなに心を砕き働いてくださっているかを知ることです。信仰を持つことはそんな扱いをされた自分の尊さと、隣人の尊さに目が開かれることです、

2019年4月7日 「権威ある者」  
聖書:マルコによる福音書 1章21節−28節   説教:
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
:人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
   「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権  威ある者としてお教えになったからである」
 
律法学者は人々に律法を教える者で、物知りです。その得た知識によって事柄を整理し解説してくれます。しかし、ある場合にはいくら原因を解説されても、諦めの手助けにはなっても生きる力にはなりません。知識の切り売りには人生の問題で人を打つ権威はありません。 
イエス様は言行が一致しておられました。そのお言葉は口先だけでなく存在をかけたお言葉です。人を救うためにその生涯を十字架に投げ出し、人を愛し、受け入れ、救わないではおかない言葉なのです。
そのことを、そこにいた男から汚れた霊(悪霊と同じ)を追いだすことで明らかにされました。当時は、精神疾患も白内障も脳溢血もみな悪霊の業と考えられていました。勿論今は違います。しかし、どんなに医学が発達してその仕組みが分かって治療できるようになっても、人間を越えて人間に悪を及ぼす働きはあるのです(エフエソ 2:1-3)。イエス様は十字架に 生涯をかけたお言葉によって悪霊の根を断ち切られたのです。
昔カトリック教会には「エクソシスト」(悪魔祓い)の係りの神父様がいました。洗礼を受ける時に悪魔に向かって手を指し出し「もう私を捕まえるな。私はキリストのものだ。悪魔の言うなりにはならない。キリストの愛の中に生きる」と宣言したそうです。
私たちは弱いのです。一つの苦しみには立ち向かえても、二つ三つと苦しみが続くと、思わずお祓いをしたくなります。私を越える悪の力はありますが、自分をを強くして乗り切るのではありません。私たちには主がいるのです。私たちはこの主の愛の支配に入れられているのです。(コロサイ1:13)