説教 


2019年5月26日 「従うことはいけにえに勝る」     
聖書:サムエル記上 15章7節−35節     説教:  
サウルはハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討った。 アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。 しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。
 
主の言葉がサムエルに臨んだ。 「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届いた。サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」 サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」 サウルは答えた。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
 
サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。 主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。 何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」 サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。 兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」 サムエルは言った。
「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。」
 
サウルはサムエルに言った。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。わたしは、主を礼拝します。」 サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」 サムエルが身を翻して立ち去ろうとすると、サウルは彼の上着の裾をつかんだ。上着は裂けた。 サムエルは彼に言い渡した。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。 イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない。」 サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」サムエルは彼について帰り、サウルは主を礼拝した。
 
サムエルは命じた。「アマレクの王アガグを、わたしのもとに連れて来なさい。」アガグは、喜んで彼のもとに出て来た。これで死の苦しみは免れる、と思ったからである。しかし、サムエルは言った。「お前の剣は女たちから子供を奪った。そのようにお前の母も子を奪われた女の一人となる。」こうしてサムエルは、ギルガルで主の御前にアガグを切り殺した。
 
サムエルはラマに行き、サウルはギブアの自分の家に向かった。 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。
  サムエルは、サウルをイスラエルの最初の王として油を注ぎ、かつてイスラエルを苦しめたアマレク人を討ち取り、すべてを滅ぼし尽くすことを神様のお心として伝えました。しかしサウルはアマレクの王と牛や羊で価値のある物は残し、残りをことごとく滅ぼしたのでした。それを知ったサムエルはサウルを叱責しますが、サウルは「神への供え物にしようとして残した」と言い逃れ、自分の非を認めようとはしません。
 
「主が喜ばれることは、焼き尽くすいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに勝り、耳を傾けることは雄羊の脂肪に勝る」
 
サムエルはあなたが神を退けたので、神もあなたを王として退けたとサウルに伝えました。すると彼はその本性を現し、神が自分を捨てたのは致し方ないが、民の前ではこれまでのように王として立てるようにと、剣に手にかけてサムエルを脅しました。
 
このことはダビデのしたことと比べるとはっきりします。ダビデは忠実な部下ウリヤからその妻バトシェバを奪い取り、敵の手でウリヤを殺害させます。このことを予言者ナタンから指摘されると、王座から滑り降りて神様に赦しを請います。そして神様の赦しに生きたのです。
サウルにとって信仰はアクセサリーのようなもので神を恐れて自分を神に従わせるのではなく、神を利用して、自分に神を従わせようとしたのでした。


 

2019年5月19日 「完全な救い」    
聖書:マルコによる福音書 1章40節−45節    説教: 
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。



 
  病気は辛いものです。病気そのものの辛さに加えて、経済的な問題、社会からの孤立、周りの者への気がね、理由をあげたら切りがありません。それらの辛さも「重い皮膚病」(ハンセン病)には比べることも出来ません。病気の辛さに加えて痛みを分かちあう家族から引き離され、神様からも「打たれた者」(イザヤ53:4)、神様から突き放された「汚れたもの」と考えられてきたのですから。
 
彼は主イエスのもとにきて「御心ならば私を清くすることがお出来になります」と訴え、イエス様も「よろしい、清くなれ」と重い皮膚病を清められました。
重い皮膚病(ハンセン病)の者は、肉体が清められたことだけをイエス様の救いとはとらえていなかったはずです。彼が知ったのは、病気の癒しを含めて、清められた者として彼の人生が丸ごと神様によって受け入れられたということでした。イエス様の出現によって明らかにされた「神様の愛の支配がここにある」という祝福の中で生きて良いと言う事に生きる。そして、それこそが救いなのです。
 
イエス様は「誰にも何も話さないように」と彼に釘を刺されます。十字架と復活による救いがなるまでは、イエス様の業は隠されなければならないのです(メシヤの秘密と言います)。しかし清められた人は、あまりに嬉しさに皆に語ってしまいます。
気持ちは分かりますが、イエス様の癒しが伝えられますと、病気がつらいだけに、病気の癒しだけがひとり歩きしてしまいます。イエス様の救いは、死と罪と不条理を克服する完全な救いなのです。イエス様の全人の救いを、薬屋や家政婦の働きに矮小化してはいけないのです。
 

2019年5月12日 「感謝して受けるならば、
               何一つ捨てるものはない」
 
   
聖書:テモテへの手紙T 4章1節−5節   説教:道家紀一牧師(立川からしだね伝道所) 
しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。
神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
 
  キリスト教の歴史は2000年、旧約聖書時代をカウントすれば、何千年に及びます。この壮大な”神の歴史”の中に、一つひとつの教会は存在しています。
地上の歴史であるかぎり、いろいろな出来事が積み重なってゆきます。ともすれば(いえ、きっと)神からご覧になれば”罪の積み重ね”と映るでありましょう。
しかし、ひとたび地上に建てられた教会を見放すことはなさいません。御子キリストの尊い十字架の血潮によって、贖い続けてくださいます。
ですから、すべてを神に委ねて、良い歴史も悪い歴史も、すべて感謝して受けとり続けるところに教会の歩みと成長があると信じます。大宮前教会の83年の歩みの上に主の祝福を祈ります。
 

2019年5月5日 「見えない土台」  
聖書:マルコによる福音書 1章29節−39節   説教:
すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


  イエス様の癒しはこう考えたらわかりやすいかも知れません。(重い皮膚病は分けた方がいいかもしれませんが)肉体の病は、手を取り、目に触り、耳に指を入れたりして癒されます。悪霊につかれたものには何もなさらず、ただ言葉で悪霊を叱ります。すると氷が火のそばで溶けるように悪霊は解けていくのです。
 
イエス様はシモンの姑の熱病を癒されました。この癒しをマタイは「彼(主の僕ーイエス様)はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病いを担った。」(イザヤ53章)のお言葉の実現と記しています。
私たちは病人に出会うと戸惑い、どうしてそうなったのかを問います。その原因を詮索し、今後の見通しが分かると病気を征服したかのように思って、見舞いの言葉を述べて帰ります。しかし当人にとっては実はそこからが、恐れと孤独のともなう病気との戦いなのです。
私たちが病むとき、自分だけの戦いではなく、家族も一緒に闘かっていること、そしてイエス様も一緒にその病を担ってくださっていることを心に期したいと思います。この中で病気と関わるのです。
 
その日、イエス様は大変な一日でした。私たちの一日の数え方からすれば、安息日の朝会堂で教え、汚れた霊を追いだし、ペトロの姑の熱病を癒し、安息日の終わった日没後、町中の人がペトロの家に集まり、癒しの業をされたのでした。そして翌日、朝早く人里離れたところで祈られたのでした。
イエス様は生涯の岐路で祈られ,また毎日の生活でも祈られます。祈って御心を聞き、歩みを調えられたのでした。私たちも自分の隠れた祭壇を築きます。
礼拝式では子ども説教をしています。子どもの心の皮袋にみ言葉を蓄えること、更に子どもが祈りを知り、祈れる子供になってほしいからです。