2019年6月30日 「神様の選び」 | ||
聖書:サムエル記上 16章1節−13節 | 説教: | |
主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」 サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。 |
サムエルは、神様を捨て、そのため神様から捨てられたサウルに代わって、二代目の王としてダビデに油を注ぎました。 その際サムエルは犠牲の子牛を捧げました。祭司として犠牲を捧げることでサウル王の目をそらそうとしたのですが、それ以上に王様として立てられることは神様に自分を捧げることであると教えたのです。地位が高くなればなるほど、仕事の重大さ、決断の重さ、恐ろしいほどの誘惑の前に立たされます。 民の声に天の声を聴く「天声人語」とも言われますが、一人ひとりが我がままである様に、「ホサナ」と言ってイエス様を迎えた民が「十字架につけよ」と叫ぶ民も我がままなのです。 神様から選ばれ、自分を神様に捧げ、神様の声に聞き続けてその職が全うできるのです。それは王様だけでなく一家の長も、主婦も同じで、隠れた祭壇を築いてできることなのです。 サムエルは2代目の王様を選ぶにあたって「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)の神様の声に従いました。 上辺で人を判断することは愚かなことです。「心を見る」とは、その人の生きる姿勢や目の付け所ではありません。神様との関係のことです。 最後は自分の思いではなく神様のお心に従うこと、さらには「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)、つまりこの歴史と人生の主を知り、おそれをもってお従いする思いがあるかどうかです。 |
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2019年6月23日 「リフレッシュの必要」 | ||
聖書:マルコ福音書 2章23節−28節 | 説教: | |
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」 |
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である」 「安息日は人のために定められた」とは、誤解されやすい言葉です。人間のために定められたのだから、人間の自由に守ったら良いというのではありません。十戒の安息日の戒めを、まるで安息日のために人があるように形式的に守るのではなく、安息日を真実に守ることが人を生かす、その意味で人のために定められたということなのです。 安息はサバトと言います。これは止めるということです。歴史の中でイスラエルの民は此の戒めを守るために、その戒めを数量化し可視化した390もの細かい規定を作りました。その規定からすれば安息日に弟子たちが麦の穂を摘むことは刈入、摘み取った麦の穂をもんで食べることは脱穀したことになり安息日の戒め違反だと言います。 それに対してイエス様は、サウル王によって追われて着のみ着のままで逃げたダビデが祭司以外の者が食べてはならない備えのパンを食べた故事(サムエル記上21章)を引いて、それは律法にかなうことであり、律法は人を苦しめるものではなく、人を生かすものだとその本質を語られました。 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、…七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト20:10) 過労死や働き方改革を言うまでもなく、人には一切を「止める」休みがどうしても必要です。 身体の安息だけでなく心の安息も必要です。 私たちは鉄の憲法を持っています。自分中心で、まず自分を第一にするという憲法です。私たちは様々に努力し工夫しますが、皆この憲法に従ってのことで、これがどれほど周りをそして自分を毒していることでしょう。そして失敗のとりこになり、開き直り、将来の不安におびえます。自分中心と高慢と不安から解放され、不安が慰められる安息日。 全ての業を止めて、ダビデの子で救い主、安息日の主、十字架と復活の主(人の子)を仰ぐのです。 |
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2019年6月16日「主の教えは断食ではなく婚宴」 | ||
聖書:マルコ福音書 2章18節−22節 | 説教: | |
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 |
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子達は断食しているのになぜあなたの弟子たちは断食しないのですか。イエスは言われた『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。…』」 ヨハネと弟子たちは敬虔に断食をしているのに、イエス様と弟子たちは「見よ、大食漢で大酒飲み(マタイ11:19)」と人から噂されるほどですから、その疑問は当然です。 断食は、犯した罪を悲しみ、必死に神様に願い事をするときの行為です。大きな罪を犯し、辛い悲しみを負っている者はパクパク食を摂れるものではありません。心からの断食をする人だっています。それは敬虔な業ですから偽善が入り込みます。しかしイエス様は断食を否定しません。 イエス様の教えは、罪を悔い、悲痛のおもいを訴える断食ではなく、相手をその長所も短所もありのままを受け入れる婚宴だと語ります。 神様は生きておられます。神様はイエス様によって私たちをありのまま受け入れて下さり、神様と結び付けてくださいました。私たちは一人ではないのです。イエス様が一緒に歩んでくださっています。自分の負の部分を見据えることも大切ですが、それ以上に神に結ばれていることを喜びます。 この教え、この喜びの福音、「新しい葡萄酒」を、上辺だけを変えることではなく「新しい皮袋」に入れていますか。 |
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2019年6月9日 「医者を必要とする者」 | ||
聖書:マルコによる福音書 2章13節−17節 | 説教: | |
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 |
「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17) レビ(又の名はマタイ)は、旧約聖書を縦横に引用したマタイによる福音書の元を書いたと言われ、その名が示すようにユダヤ教の厳格な家風や小さい時の教育がしのばれます。そのレビが、どこでどう間違えたのか、徴税人になったのです。 徴税人は本当はいい人なのに社会の偏見から差別されている人ではありません。自他共に罪人(神様に従わない者)であることを知っているのです。彼はうそぶき開き直って収税所にいたのです。イエス様は、あなたは間違っている、本当の生き方ではない。私に従て来なさいと招かれ、彼は従いました。 ファリサイ派の律法学者は信仰に立つ人でした。皆が神様のお心を無視して平気で罪に流されるとき、彼らはなんとか信仰に立とうと真剣に努力したのでした。するといつの間にかそうしない人を裁いてしまうのでした。 又、その生き様を人々が賞賛しますので、人の目を意識する行いになってしまったのです。自分がよい行いをしていると思っているので、自分も愛と赦しが必要だと思えなくなってしまうのです。 だからおまえは駄目だ、おまえは傲慢だとは言われません。イエス様の目には、レビもファリサイ派 の律法学者も、愛と赦しの処方が必要な病人なのです。イエス様はそんな私たちのために来て下さり、 招いてくださっています。(ルカ 23:34)。このイエス様に出会っていますか。 |
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2019年6月2日 「関係の回復」 | ||
聖書:マルコによる福音書 2章1節−12節 | 説教: | |
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。 イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 |
中風の者に対してイエス様は「子よ、あなたの罪は赦される」(口語訳では瞬間的動作を表わす用法で「赦された」と訳しその方が解り易い)と宣言されました。罪を赦せるのは神様以外にありませんし、罪の赦しは目に見えませんから、律法学者たちは心のなかで「この人は神を冒とくしている」と考えました。律法学者の思いはもっともなことです。それを知ったイエス様は罪を赦す力と権威を持つ者であることの証明として、中風の者を癒されたのでした。 中風が治らないでいいのではありません。治るものなら治さなければなりません。私たちは決して病気に負けてはいけないのです。 しかし、病気さえ治れば、それで生きる問題の一切が解決されたのではありません。家族のこと、子供のこと、経済的な問題、人との行き違い、将来のこと、やがて迎える死、人の問題は病気だけではないのです。 罪の赦しとは、神様との再結合です。神様と無縁に生き、むしろ敵対して生きていた私たちが、罪赦されてもう一度神様と結び合わされる。神様が味方であり、赦しと愛を信じて生きることが出来るようにされることです。 イエス様から「あなたの罪は赦された」の宣言を聞いていますか。自分の拭い去りたい罪と失敗の虜(トリコ)から解放されていますか。神様が味方になってくださっているのが腹に入っていますか。 |
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