説教 


2019年7月28日 「主の戦い」       
聖書:サムエル記上 17章41節−54節    説教: 
ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。 彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。 このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。 ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。 ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。
ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。 イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。
ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。
 
  この箇所は二代目の王ダビデの若い時の痛快なエピソードです。
この頃イスラエルは最新の文明をもつ海洋民族ペリシテ人に苦しめられておりました。
ある時エラの谷を挟んでペリシテ人とイスラエルは対峙しました。戦いがこう着状態になったからでしょうか、ペリシテの巨人ゴリアトがイスラエルに一騎打ちの提案をしますが、イスラエルの人々はなすすべもなく怯えていました。サウル王はイスラエルの民に、もしゴリアトを倒せば娘を与えて王の一族にし、その家族の税金を免除すると約束しますが、だれもその戦いに出ようとはしません。どんなに好条件をつけられても、それで人が動くのではありません。褒美ではなく、他者のためです。また神様のための戦いは、強く、必ず勝つ戦いです。

たまたま父エッサイの言いつけで従軍していた3人の兄に弁当を届け、父に報告するため戦いの様子を見ていたダビデは、ゴリアトが神様を侮辱するのを知って立ち上がりました。「活ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、いったい何者なのですか」と。

彼の武器はサウル王が与えた剣や鎧ではありません。毎日羊を守るために使いならした5つの平らな小石と石投げでした。それでいつも熊を倒すようにゴリアとを倒したのでした。

信仰生活は日常生活の中でのものです。特別のことではありせん。日常生活で信仰に立って歩むことが信仰の闘いです。そしてその武器も特別なものではなく、誰もが手に出来る日常生活で用いているものです。ある人はこれを、エフェソ6章14節の「真理の帯、正義の胸当、平和の福音、救いの兜、御霊の剣」といいます。
 

2019年7月21日 「救いを担う群れ」      
聖書:マルコによる福音書 3章13節−19節     説教: 
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
  主イエスは十二人の一人ひとりを「これと思う人」として呼んで、皆の前に立たせ、弟子とされました。
世に学者がいないのではありません。人生経験の豊かな人、社会的地位の高い人がいないのではありません。しかし選ばれた12人は、目に一つの文字もない漁師であり、いわくつきの徴税人であり、無名の人でした。伝道したり、社会への効果を考えると、もっと力のある、だれが見ても納得できる人がいてもよいはずです。
無きに等しいものが選ばれたのは、自分の力でイエス様の教え(福音)を支えたり、補ったりできない(その必要はないのですが)無力な者、逆にそういう人を生かし支える福音がむきだしで明らかになるためなのです(Tコリント 1:26以下)。
 
イエス様に召される前であれば、この12人が街で出会えば服の下に隠した短剣を握り直したり、お金をもたない相手をさげすむ。そりが合わず、軽蔑し、いがみ合い、できれば付き合いたくない人同士だったに違いありません。そんな12人が、私たちの代表として神様の救いを担う「新しいイスラエル」として選ばれました。
 
イエス様はありのままの私をそのまま赦して受け入れて下さいました。実は私だけでなく、私とそりの合わない隣人も受け入れられているのです。私も隣人もその赦しと愛に生かされて、違いや誤解や感情的なもつれを乗り越えていきます。教会でそれを味わいます。    教会で整えられて、福音を担って家庭や周りへと出ていくのです。
 

2019年7月14日 「呼び寄せられた者」     
聖書:マルコによる福音書 3章7節−19節    説教: 
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
 
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
 
こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
  「イエスは…これと思う人々を呼び寄せられ…十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」
 
イエス様の御働きが大きく広がると(3:7−12)イエス様の命を狙う者もいました。逆にイエス様をしたい、中には持ちあげる人も(ヨハネ6:15)いました。正しくその教えを受けとめ、それを伝える群れを作るため、十二人を任命されました。
 
弟子(信仰者)とは、何よりイエス様によって呼び寄せられた者です。イエス様に従うには様々なきっかけがあります。しかし本当の原因は神様の選びにあります(エフエソ 1:3-6)。もし自分の願いや熱心だけだとすれば、私たちの信仰はなんと危ういことでしょう。私の気持ちの変化や努力の終わりが信仰の終わりとなってしまうのです。私たちは「これと思う者として呼び寄せられた」のです。このイエス様の思い(何としてもその人の生き方に責任をもって深く関わってくださる願い)に気付いていますか。
その目的は何より「自分(イエス様)のそばに置くため」です。私たちの迷いの多くは、大きな問題の前で神様のいますことがわからなくなることです。福音とは、神様(イエス様)が共にいますこと。これは私たちの願い以上に、イエス様が願っておられることに気付くことなのです。 さらにイエス様によって始まった神様の愛の支配を、言葉(宣教)によって、また行ない(悪霊を追い出す権能)において明らかにするためなのです。
 

2019年7月7日 「義と愛の関係」  
聖書:マルコによる福音書 3章1節−6節   説教:
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

  「安息日に律法で許されているのは善を行なうことか悪を行なうことか、命を救うことか殺すことか。」これは誰でもわかることですが、安息日の律法を守るということとの関連ではその答えがわからなくなるのです。 
律法を形式的に守ることは無意味なこともあります。しかし形式的に守ることは、いくらでも自分を誤魔化せる私たちにとっては弁解の余地のない厳しい義の一つの姿です。一体筋を通さないで事はなる
のでしょうか。 
 
義に生きることは神様との関係に生きることですが、私たちは隣人との関係でも生きています。義しく生きると共に愛にも生きます。義と愛の関係は、私たちが生きる上でのギリギリのせめぎあいの問題です。
愛のない義は人を生かしません。義を追求することが、いつのまにか人の間違いを追求することにつながり、人を殺します。また義の裏打ちのない愛や許しも人を生かしません。甘やかし、やがては人をだめにして殺します。
 
マタイ福音書ではこの記事の後にイザヤ書の苦難の僕の預言(マタイ12:15、イザヤ42:1)を引用しています。愛するとは自分が傷つくことです。自分が傷つかずに愛を語ることは出来ません。十字架は神の義と愛の交差するところです。義と愛の関係を、それによって命を狙われたイエス様が明らかにして下さいました。
日常生活での愛と義の行為、それはその都度イエス様に聞いたらよいのです。