説教 


2019年8月25日 「愛と憎しみ」      
聖書:サムエル記上 18章1節−30節    説教:  
ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。 サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。 ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。
皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。 女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、 ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。
主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。 主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。 イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。
サウルはダビデに言った。「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう。わたしの戦士となり、主の戦いをたたかってくれ。」サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた。ダビデはサウルに言った。「わたしなど何者でしょう。わたしの一族、わたしの父の一族などイスラエルで何者でしょう。わたしが王の婿になるとは。」ところが、サウルの娘メラブはダビデに嫁ぐべきときに、メホラ人アドリエルに嫁がせられた。
サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。それをサウルに告げる者があり、サウルは好都合だと思った。 サウルは、「彼女を与えてダビデを罠にかけ、ペリシテ人の手にかけよう」と考え、ダビデに言った。「二番目の娘を嫁にし、その日わたしの婿になりなさい。」 サウルは家臣に命じた。「ダビデにひそかにこう言え。『王はあなたが気に入っておられるし、家臣たちも皆、あなたを愛しているのだから、王の婿になってください。』」 サウルの家臣はこれらの言葉をダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になることが、あなたたちの目には容易なことと見えるのですか。わたしは貧しく、身分も低い者です。」 サウルの家臣は、ダビデの言ったことをサウルに報告した。サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。 家臣はダビデにこのことを告げた。ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、何日もたたないうちに、 自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。ペリシテの将軍たちが出撃して来ると、ダビデはそのたびにサウルの家臣のだれよりも武勲を立て、名声を得た。
 
  ゴリアトを倒したダビデはサウル王に仕え、ダビデは戦いに出るたびにペリシテ人を滅ぼしました。戦いから帰ると人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と言って彼を迎えました。
それを聞いたサウル王は激怒し、「あとは王位を与えるだけか」と言ってダビデをねたみの目で見るようになり、ついには命を狙うようになりました。
 
一度抱いた人への不信や妬みは人を単純には見させなくします。不信は不信を生み、疑いは更に大きな疑いへと人を導きます。不信でしか人を見られないことがどんなに苦痛で、人への憎悪がどんなに自分を毒することでしょう。
 
サウル王の子ヨナタンはダビデの魂と結びつき、彼は自分自身のようにダビデを愛しました。普通なら王様は敵を倒す部下を褒め、王子は手柄を立てる者を妬むのですが、サウル王とヨナタンは逆でした。そんなヨナタンをサウル王は「心の曲がった不実の女の息子よ。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ」と責めます。もっともな事です。しかしヨナタンとダビデの愛は更に深くなります。実は自分の思い通りに生きることが幸せではありません。愛する喜び、否、愛せる喜びがどんなに幸いなことか。憎しみと恨みは事柄を作り上げません。つらくても赦しと愛だけが関係を作り上げ、人生の豊かさと喜びに導きます。そしてそれが出来るのです。
 
ヨナタンとダビデは契約を結びます。生まれながらの愛憎の関係ではなく、その関係の間に神様との契約で入っていただくのです。自分を愛するように自分の隣人を愛せない私たちに、主イエスは自ら隣人となってくださいました。
隣人を愛そうと気負うのでなく、自分が愛されていることに目が開かれる。これが信仰です
 

2019年8月18日 「わたしの母、わたしの兄弟」     
聖書:マルコによる福音書 3章31節−35節     説教:  
 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
  「私の母、兄弟とは誰か。…見よ、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)
 
エルサレムからイエス様の行状を調査に来た律法学者たちはイエス様が尋常な人でないことを知りましたが、その業を「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」として、それを喧伝しました。そのうわさが故郷ナザレにまで伝わると、身内の者たちはイエス様を取り押さえて故郷に連れて帰ろうとしましとました。ところがイエス様は堂々と律法学者たちと渡り合い、それを見た身内の者たちは自分たちの出る幕ではないとナザレに帰りました。しかしイエス様の母と兄弟たちは一緒には帰らず、せめて一言でもイエスと話したいとイエス様への取り次ぎを頼みました。その時言われたのが上記の言葉です。
  
私たちは肉親によってこの世に生を受け、育まれ、導かれてきました。このこと抜きには今日の私たちは考えられません。しかし私たちを今日あらしめたものは肉親や友人だけではありません。わたしが配慮する以上にわたしを配慮し、愛と赦しをもってわたしを気遣い給うお方がいるのです。同じ父母から生を受けたものが兄弟であるように、この天の父の元で、私たちは兄弟姉妹なのです。
主イエスは肉親を捨てよと言ったり、肉親はこの世では仮の姿であると言われたのでもありません。肉親の関係は神様によってとらえなおされ、清められる必要があるのです。
 
肉親の愛は麗しいものです。そこには他人が入りこめません。しかしそれだけに、肉親の故の我がままや醜さのあることを私たちは知っています。
神様から託されたものとして、肉親を愛し、育み、仕えます。真実に神様が崇められるところで、肉親の関係も強められ、清められ、更にその関係を隣人にも広げるのです。

 

2019年8月11日 「赦される罪、赦されない罪」     
聖書:マルコによる福音書 3章20節−30節    説教: 
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
 
  はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」「
 
エルサレムからイエス様の行状を調査に来た律法学者たちは、イエス様のしていることが尋常でないことは分かりました。しかしイエス様の業を神様の業とは認めず、あえて汚れた霊に取りつかれた者の業として喧伝したのでした。
それに対してイエス様は、国や家は内輪で争えば立ちゆけず、悪霊の頭が悪霊をおい出すのは、理屈に合わないこと。さらに自分を強盗に見立て、サタンの家に押し入って悪の頭を追い出して神の愛の侵略をしたと言われます。信仰とはこのイエス様の愛の支配の軍門に下ることなのです。
 
無知、無理解、弱さから、人はしばしば罪を犯します。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23:34)と叫ばれた主イエスの十字架のなかに、これらは包み込まれています。しかし、事実を知りながら、分かっていながら、故意に自己を押し立てて「冒涜し続ける」これが問題です。
 
聖霊は私達の心の内に、罪と赦しをささやきかけます(1コリント 12:3)。この導きを拒む者に悔い改めと赦しのないことは必定です。このささやきを拒んで、人は一体どこでその歩みを正されるのでしょうか。
この話はユダの裏切りの後に出てきます。本当に救われないのは裏切ることではなく、それを認めず、素直に赦しに立てないことなのです
 

2019年8月4日 「神の赦しと愛に立つ」  
聖書:マルコによる福音書 3章13節−19節   説教:
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


  イエス様から選ばれた十二弟子の中にイエス様を裏切ったユダがいます。聖書はわざわざ「このユダがイエスを裏切ったのである」と記していますイ。エス様は間違って選んだのではありませんし、決して裏切らない者だけを選んだのではありません。ユダの問題は、私の問題なのです。
 
ユダがなぜイエス様を裏切ったのか。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした」(マルコ14:10) 「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」。(ヨハネ12:4)と言います。またいつまでたっても立ち上がらないイエス様に奮起を促そうとしてその暴挙に出たのでしょうか。いずれにしてもイエス様に自分を合わせるのではなく、自分にイエス様を合わせようとしたのです。
 
裏切ったことでは他の弟子達も同じです。イエス様を見捨ててゲッセマネの闇に逃げ去り、ペトロは神かけてイエス様を否定しました。程度の差こそあれユダも他の弟子達もイエス様を裏切ったことは同じです。後でそれを悔やんだことも同じです。 弟子達がイエス様を見捨てても、イエス様が弟子達を捨てたのではありません。ペトロは惨めな姿をそのままイエス様の前にさらし、ユダは一見潔く失敗を自分で処理しました。ペトロとユダの差は紙一重です。主の赦しに生きるか、自分の心のままに生きるかです。自分でも自分を裁かず、(1コリント4:1-4)、主の赦しの恵みにしたたかに生きる、これが信仰者です。
 
〈深津文雄〉 「悲しみを通らない喜びはやがて悲しみに終わる、しかし悲しみを通った喜びは再び悲しみに変わることはない。病むまでの健康でなく病みぬいた健康、失敗するまでの成功でなく失敗を克服した成功、汚れるまでの清さでなく汚れから立ち上がる清さを私達は主から求めよう。主は喜んで世の罪を担い、苦しみを受け、一度黄泉に下り、そこから甦られたのだから」