2019年9月29日 「さすらい」 | ||
聖書:サムエル記上 21章1節−16節 | 説教: | |
ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。 ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。 それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」 祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」 ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」 普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。 そこにはその日、サウルの家臣の一人が主の御前にとどめられていた。名をドエグというエドム人で、サウルに属する牧者のつわものであった。 ダビデは更にアヒメレクに求めた。「ここに、あなたの手もとに、槍か剣がありますか。王の用件が急なことだったので、自分の剣も武器も取って来ることができなかったのです。」 祭司は言った。「エラの谷で、あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣なら、そこ、エフォドの後ろに布に包んであります。もしそれを持って行きたければ持って行ってください。そのほかには何もありません。」ダビデは言った。「それにまさるものはない。それをください。」 ダビデは立ってその日のうちにサウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」 ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。 アキシュは家臣に言った。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。 わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れて来たのか。この男をわたしの家に入れようというのか。」 |
「さすらい」これが私たちの人生です。結局突き詰めれば、人は一人で生き、道を拓き、戦っていかなければなりません。家族や友人は声援を送ってくれてはいるのですが、最後は神様の導きを信じて生きていく以外ないのです。 ペリシテの巨人ゴリアトを倒したダビデは、そのままサウル王の兵隊となり王女と結婚してサウル王の家族となりました。ダビデは戦いに出るたびに武勲を立て、「サウルは千を倒し、ダビデは万を倒す」と人々が歌うほどでした。サウル王はこれを嫉妬しダビデを陰湿な方法で命を狙い続けました。 王宮を追われたダビデは祭司を訪ねました。神様に求めたのです。「苦しい時の神だのみ」とにわか信仰を揶揄した言葉がありますが違います。本当に頼るべき方を知って祭司のもとに行ったのです。 身の危険を感じて着の身着のままでサウルの王の前から逃げ、食料と剣と武器を手にしたダビデは,サウル王を恐れるあまり、サウル王の支配の及ばないペリシテの地に逃亡しました。これは失敗でした。ペリシテ人はゴリアトを倒した憎いダビデのことはよく知っていたのです。 サウル以上に恐ろしいペリシテから危機一髪アドラムの洞穴に逃れ、そこに不満や負債のあるあぶれ者たち400人が集まり、ダビデはその群れの長となり、傭兵として生活しました。 この時期のダビデは惨澹たるものです(20章〜30章)。助けた町に裏切られ、サウル王に密告され、好意と裏切りの織り成す歩みを続けます。この時期のことを詩編52−56篇で歌っています。 ダビデにとって「行く末遠くを見ての歩み」ではなく、私たちもそうですが、一足ひと足、神様の導きを信じての歩みなのです(讃美歌460番) |
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2019年9月22日 「嵐の中を進む」 | ||
聖書:マルコによる福音書 4章35節−41節 | 説教: | |
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 |
この箇所は、イエス様の一行が湖を舟で向こう岸へ渡る途中、嵐に遭い、イエス様が風を叱ると凪になり、弟子たちは改めてイエス様に目が開かれたという話です。そのまま信じられるかどうかは別としてわかりやすい話です。初代教会の人たちはこの話が大好きで、マタイにもルカにも記されています。 舟は私たちの人生や教会の象徴です。舟は事もなく進んでいくようですが、いつ沈んでもおかしくありません。 舟は舟である限り絶対に安全ということはないのです。私たちは自分で漕いで目的地へ行こうとしますし、行ける時もありますが、いつも危険が隣り合わせです。私たちの人生は何と壊れやすいことでしょう。 湖はこの世です。湖に嵐は突然襲います。こちらがいくら注意していても、危険は向こうからやって来ます。必死で手立てをつくしても、手に余る嵐が舟を飲み込もうとするのです。 ところがイエス様は舟の後方で眠っておられます。弟子たちは思わずイエス様に「先生私たちが死んでもお構いにならないのですか」と八つ当たりに似た言葉を叫びます。イエス様にとっても嵐は嵐に違いありません。しかし世界は神様の支配しておられるところで、嵐の背後にその支配を見て、身を委ねておられるのです。弟子の悲鳴に起き上がり、「黙れ、静まれ」と湖を叱られ、「まだ信じないのか」と言われます。 湖を舟で渡る私たちにとって嵐は、イエス様が一緒にいて下さることが明らかになる時です。私たちの信じているイエス様がどういうお方なのかが明らかになる時なのです。 ある牧師が癌で入院しました。その枕もとには1冊ノートが置いてあり、お見舞いに着られた方に名前を書いてもらっていました。そのノートはだれが見舞いに来てくれたのかを知る閻魔帳ではなく、裏表紙にはこう書かれていました。 「病床は神様の実験室。さてどんな御業を見せて下さるか。あなたはその証人です」 |
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2019年9月15日 「育ちゆく生命の種」 | ||
聖書:マルコによる福音書 4章21節−34節 | 説教: | |
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
聞く耳のある者は聞きなさい。」 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。 |
「でも聞いてください。神様はいるのですよ。ただ存在するだけでなく、愛をもって支配しておられるのですよ。その証拠に私たちのために十字架にかかり、甦られたのですよ」これを私たちは聞かされました。 これをどう聞くのでしょうか。初めから拒否するのか、少し心動かされはするもののそれを根付かせない、み言葉と共に他のものにも心動かされるのか、その言葉を根付かせないのです。これは畑の問題、どう聞くかの問題です(4:1-20)。 この箇所は聞き方の問題ではなく、聞いた中身を語っています。私たちに伝えられた生命の言葉は、ともし火のようにどんなに隠してもあらわになり(21-23)、更に増し加えられ(24-25)、人の知らないうちに芽を出し、茎、穂を伸ばし、実を結ばせ(26-29)、小さなからし種のような御言葉が、大きな野菜のように成長します(30-32)。 御言葉をどう聞くかも問題ですが、何を聞いたのかも問題なのです。私の受け止め方によって実を結ぶことも事実ですが、そのお言葉が私のお思いをこえて私のうちに何事かを起こさないではおかない生命の御言葉なのです。 「宋人苗を植える」という言葉があります。苗を植えると、二・三日すると「もう苗は根付いたか」と確かめようと根を抜いて見る、あるいは早く大きくなれと苗を引っ張ってしまう、とも言います。 焦らず、いらだたず、私の中に蒔かれた生命の御言葉に自分を任せるのです。 |
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2019年9月8日 「実を結ぶ聞き方」 | ||
聖書:マルコによる福音書 4章1節−20節 | 説教 | |
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 |
イエス様の周りには老若男女、学問のある人とない人、育ちも生育歴も違う様々な人が集まっていました。その全ての人に神様の愛の支配を伝えるためにはたとえを用いて語られました。譬は聞き方によっては、より深い真理を獲得できますが、逆にその真意を隠されてしまいます。 種は「御言葉」です。種の播かれる畑は私たちの心です。種が播かれ、ひとたび御言葉がその人のうちに根付きますと、その人のうちに何事かをしないではおきません。御言葉には生命があるからです。 すると問題は、それを受けとめる私たちの心・畑です。 自分の経験や価値観から自分のガードを固めて、初めから聞く耳を持たず、御言葉を受け入れない道ばたの心。 苦しいことが起こるとすぐにやめてしまう(いったい継続しないで事はなるのでしょうか)石地の心。 何にでも興味を示し、興味はよいのですが、興味、多くの教養の一つとして御言葉を聞くのです。 つまり御言葉がなくてならぬものだと言う認識がない茨の心。 素直に御言葉に聞き、堪え忍んでそれを守る良い地の心。良い地とは、言葉を聞き、それを受けとめ、その支配に身を委ねる人のことです。 ここで突然種まきのたとえが記されているのではなく、実は「神のお心を行う人こそが、私の母、兄弟なのだ」への答えなのです。 ここには四つの種類の畑が記されていますが、イエス様は、おまえの心はどれだと言って裁いているのではありません。こういう聞き方をしていては実を実らせることは出来ない、よい畑になってぜひ実を結べと言っておられるのです。「神様の愛の支配が始まっているのだぞ」という御言葉を、ぜひ根付かせなさい「私と兄弟姉妹になりなさい」と言っておられるのです。 |
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2019年9月1日 「逆転を待っている」 |
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聖書:ヨハネによる福音書 16章12節−24節 | 説教:武蔵野緑教会 柳下明子 |
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言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 |
イエス様はこの世界を生きるわたしたちが、困難の中でなお希望を持って生きるために、「その日」という区切りを約束してくださいます。 イエスさまは弟子たちに対して「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と福音書の中で語っています。真理を知らせる、というのは、キリストにかかわる真実、自分を生かすキリストについてのことがらについて教えるということです。それはすなわち、イエスさまが生きて、死んだことの自分にとっての意味がわかる、イエスさまの死が死のままで打ち捨てられたものではないということを知るときが「その日」です。 それが、弟子たちが、そして聖書を信じるわたしたちが真理を悟る時です。十字架に死ぬことによって人を生かすイエスさまのもたらす逆転は、人のいのちを逆転させます。自分のいのちをその逆転の中で受け取るとき、人は自分の「困難」をまた逆転の中で理解するようになります。 「その日」はわたしたちにとっていつなのでしょう。それぞれの「その日」を待ち望みましょう。 |
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