説教 


2019年10月27日 「悪をもって悪に報いず」     
聖書:サムエル記 上 24章1節−16節    説教 
ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害にとどまった。 ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があった。サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。 途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。 ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
 
ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。 ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、 サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。 わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。 主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。 イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。 主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
  サウル王の嫉妬から追われる身となったダビデの周りには、しいたげられた者、不満のある者、ならず者など400人ほどが集まり、ダビデと行動を共にしました。イスラエルの町がペリシテ人に襲われたと聞くとそれを助け、各地で傭兵の仕事をしたのです。ある町に行くと住民はダビデの一行を歓迎して祝宴まで催してくれましたが裏ではサウルに密告していました。
ダビデたちの行動は逐一サウル王に密告され、サウル王はそれをもとにダビデの殺害に向かいます。ダビデはそれを避けて逃亡し続けます。その繰り返しです。
 
サウル王はダビデの息の根を止めるため3000人の選り抜きの兵士を連れてエンゲデに来ました。エンゲデには多くの洞穴があります。天気の急変などの場合羊飼いが羊をそこにかくまったりもします。ダビデを追撃してきたサウル王は用をたそうとして洞穴に入りますが、奥にはダビデたちがいたのです。ダビデの部下は用をたす無防備なサウルを打つことをダビデに勧めますが、ダビデは「神が油注いだものを打つことはしない」と言って、気づかれないようにサウル王に近づき衣の裾を切りました。洞穴を出たサウルに、ダビデはその切れ端を示して、自分は王に恨みも殺意もないことを吐露すると、さすがのサウル王も心打たれ、兵を引き上げました、一時の平和です。
殺したいと思うほどのあの人も、神様が立てた者。神様が二人の間を裁いてくださることを知っていますので、神様の手にこの恨みも委ねるのです。ダビデはそのようにして神様に従ったのです。神様に従うすさまじいまでの旧約聖書の信仰の姿です。
 
新約聖書は言います。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 

2019年10月20日 「服に触れたのはだれか」 
             ー癒しから救いへー 
   
聖書:マルコによる福音書 5章21節−34節     説教:  
 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
 
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
 
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
  十二年も出血が止まらない女がいました。医者に食い物にされ、財産も失い、詮方尽きて評判のイエス様の許に来て、群衆にまぎれこんでイエス様の衣にさわりました。衣にでもさわれば癒されると思ってのことです。そして事実癒されました。そのあと今度はイエス様がその女を捜されました。
 
この箇所は霊験あらたかなお地蔵さんに触れたら病が直ったり、子どもが授かったといった類のように思われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様は招いてくださっています。イエス様は人生の非常口です。どんなにつたない願いであってもイエス様はそれを受け取ってくださり、御業を表わしてくださいます。イエス様の許に持っていけばいいのです。
 
実は聖書の信仰はここから始まります。病気が治って一切の問題が解決したのではありません。この女は病気が治って社会に復帰し、結婚だってするかもしれません。病気の時は早く治って生きたいと思うでしょうが、健康になったら一層のこと死んでしまいたいと思う問題にも出会うのです。
目先の恵みをいただいて、それで足れりとする信仰はもろくて弱いものです。倦怠と慣れはいつも私たちについて回ります。恵みは、時と共に色あせ、感謝は感謝でなくなるからです。                                                      
私たちは、周りの人と愛し愛され、配慮し配慮される関係の中で生きています。信仰とは、神様とこの関係に入ることです。この関係を結ぶためにイエス様は女を捜されたのでした。
女はイエス様の前にありのままを語って自分を投げ出し、イエス様も女を丸ごと引き受け「安心して行きなさい」と語られます。目先のあの事この問題の解決と共に、その後の生涯も神様の愛と配慮の中で生きるのです。
 

2019年10月13日 「主人の交代」     
聖書:マルコによる福音書 5章1節−20節    説教: 
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
  ここは不気味な箇所です。汚れた霊、墓場、レギオン(大多数の意)、豚が崖から雪崩を打って湖に入って溺れ死ぬこと、これらは私たちと無縁の箇所ように思いますが、素朴な表現で私たちの負の本質をえぐりだしています。(ドフトエフスキーの「悪霊」もルカ福音書のこの記事からロシア革命によって明らかにされた人間の負の部分をえぐり出しています)
 
人は自分が意志するように生きられる部分と、自分を越える「空中の権をもつ君」(エフェソ2:1−3)によって支配されている部分があります。例えば、皆がどんなに平和を求めても銃声はやみません。人の努力や誠意を越える人の思いを凌駕する悪の支配がこの世にはあるのです。
 
汚れた霊につかれ、墓場に住む男、これは私たちの象徴です。人との交わりに生きられず、他人を傷つけ、自分も傷ついて苦しむ。そこに救い主が来られると激しくこれを拒む。明らかに矛盾ですが、これが私たちの姿です。
 十字架と甦りの主は、悪霊に支配されている私たちに近付いてこられます。イエス様と出会うことは恐ろしいことです。イエス様から自分にとって都合のいいところだけを摂取するのではなく、私が倒され、イエス様に組み敷かれる事だからです。これが救いで、これ以外に救いはありません。自分の殻が破られない救いなど、自分を超える問題、まして死の前には何の力もありません。      
 
苦しい時イエス様に委ねる幸いを私たちは知っています。落ち込んだ時だけでなく、自我に固まった時も、「我が愛におれ、我に委ねよ、我に従え」と言われるイエス様に自分を明け渡し、整えられていくのです。
 

2019年10月6日 「神の言葉はとこしえに立つ」
 
聖書:イザヤ書 40章1節−8節   説教:
慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

  「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 
その昔エルサレムの住民は国が滅ぼされ、奴隷としてバビロンに連行され、地獄を見ました。人の営みはまことにはかないものです。砂漠から吹くシロッコ風(熱風)で草も花も枯れるように、バビロンの大軍の前に自分たちの何もかもが枯れたのです。国を失い奴隷とされ、明日に希望はありませんでした。
諸行は無常なのです。見える世界で常なるものは一つもありません。それは聖書の世界だけでなく、平家物語でも方丈記でもいろは歌でもこれを語ります。しかし聖書はそのあと「しかし神の言葉はとこしえに立つ」と宣言します。
「言葉」とは、聖書では、コミュニケーションの手段だけでなく、出来事を表し、神様の決意、人を救うという神様の意思を表します。
 
阪神大震災は、人の世のはかなさを教え、おごる私たちに鉄槌を下し、それを忘れかけた私たちに東日本大震災は、もう一度それを思いださせました。草は枯れ、花はしぼみ、どんなに私たちの周囲が変わっても、地の底が割れるような経験の中にあっても、わたしたちを救うという神様の御心は不変なのです。
最後に決定的に神様はイエスを御送りくださってその赦しと愛をお示しくださいました。ここに立ってその歩みを整えるのです。