説教 


2019年11月24日 「愚か者の賢い妻」     
聖書:サムエル記上 25章1節−22節     説教 
サムエルが死んだので、全イスラエルは集まり、彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒れ野に下った。
一人の男がマオンにいた。仕事場はカルメルにあり、非常に裕福で、羊三千匹、山羊千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を刈っていた。 男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。 荒れ野にいたダビデは、ナバルが羊の毛を刈っていると聞き、 十人の従者を送ることにして、彼らにこう言った。「カルメルに上り、ナバルを訪ね、わたしの名によって安否を問い、 次のように言うがよい。『あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。 羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。彼らがカルメルに滞在していた間、無くなったものは何もないはずです。 あなたの従者に尋ねてくだされば、そう答えるでしょう。わたしの従者が御厚意にあずかれますように。この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください。』」
ダビデの従者は到着すると、教えられたとおりダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。
ナバルはダビデの部下に答えて言った。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。
わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告した。 ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。四百人ほどがダビデに従って進み、二百人は荷物のところにとどまった
ナバルの従者の一人がナバルの妻アビガイルに報告した。「ダビデは、御主人に祝福を述べようと荒れ野から使いをよこしたのに、御主人は彼らをののしりました。あの人たちは実に親切で、我々が野に出ていて彼らと共に移動したときも、我々を侮辱したりせず、何かが無くなったこともありません。彼らのもとにいて羊を飼っているときはいつも、彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました。 御主人にも、この家の者全体にも、災いがふりかかろうとしている今、あなたが何をなすべきか、しっかり考えてください。御主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません。」
アビガイルは急いで、パンを二百、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子を二百取り、何頭かのろばに積み、 従者に命じた。「案内しなさい。後をついて行きます。」彼女は夫ナバルには何も言わなかった。 アビガイルが、ろばに乗って山陰を進んで行くと、向こうからダビデとその兵が進んで来るのに出会った。 ダビデはこう言ったばかりであった。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。 明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。」
  ダビデがサウル王の嫉妬から、王の手を逃れて逃亡し続けた時のエピソードの一つです。
王の追撃を逃れるために王の支配の及ばないところに逃れます。王様の支配の及ばないところは治安も悪く略奪もありました。そのダビデの許には、いつの間にか不満をもつ者・ならず者など600人ほどが集まり、ダビデはその群れのボスとなって強盗や略奪から街を守る傭兵の仕事をしていました。
 
当時の習慣から、一年に一度の羊の毛を刈る収穫のお祝いの時に、ダビデはマオンに住むナバルにこれまでの報酬を求めました。ところがナバルは「この頃は主人を捨てて逃げる僕が多い。どうして私のパンと水と肉を与えなければならないのか」とダビデの使いを侮辱して空手で返しました。その仕打ちにダビデは怒り心頭に達し、ナバルに報復の殺害を諮りました。
ナバルのしたことを知った妻のアビガイルは、直ぐに手ずから心を込めたダビデへの贈り物を整えてダビデの元に行き、夫の非を語り、情理を尽してダビデが怒りにまかせての無益な流血に走らないようにと哀願したのでした。
 
ある牧師は、この箇所をやがて結ばれる二人の結婚準備会のテキストに使うと言われます。ここには「愚か」と「賢さ」が見事に記されているからです。
「愚かさ」とは、たとえ人生に長じ才覚があっても、自分勝手で人の善意を認められないことです。自分だけがうまい目を見て、皆と一緒に生きられないことです。「賢い」とは、自分を越える方を畏れ、思慮深く、人を配慮できることです。
こうしなければ救われないというのではなく、神様の愛に触れたものが、自分を生かし相手を生かす生き方の一つです。
 

2019年11月17日 「思いを越える救い主」     
聖書:マルコによる福音書 6章1節−6節    説教 
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
   「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。…その手で行なわれる奇跡は一体なにか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で…兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」                                    
これが郷里の人々の反応です。故郷の人たちはイエス様の氏素性を知っていますので、その本質を見るのではなく外側で判断してしまいました。ある意味では致し方のないことでしょう。イエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。
                                
しかしこれはイエス様を上辺で誤解したというだけではなく、本質にかかわる躓きでもあります。「マリヤの息子」と故郷の人は言いました。ユダヤでは人を語る時は父の名を言いますから、これは異例です。故郷の人たちもマリヤが結婚前に身重になったことを知っていたのでしょうか。私たちは「主は聖霊によって宿り処女マリヤより生まれ」と告白していますが、故郷の人たちは揶揄をもってそれを語ります。自分たちはお前の事を何もかも知っているぞと言います。実は、故郷の人たちにとってもイエス様は、何もかもを知られ、知っているからこその救い主なのです。
 
「医者が病気に罹ったとき」という本がありますが,医者は自分が癌の宣告をうけた時、初めて患者の気持ち、その不安、孤独が分かったと言います。私たちと一緒に住んでくださったからこその痛みも悲しみも、問題のすべてをわかっていて、執り成しくさる救い主。それが私たちのために生まれた意味です。
    

2019年11月10日 「奇跡と信仰」     
聖書:マルコによる福音書 5章35節−6章6節    説教: 
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

 マルコによる福音書/6章
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

 
  イエス様のご生涯には4種類の奇跡があります。自然(嵐を静め、パンを与えるなど)、肉体(各種の病気を癒す)、悪霊(悪霊を追い出すなど)、死(死者を生き返らせる)に対して行なわれたものです。マルコ福音書4章35節〜5章43節には、この4種類に奇跡が記されています。それによってイエス様が自然界、肉体、霊界、死に対してすら主であられることを示しています。
 
 奇跡の記事での私たちの戸惑いは、それが理屈に合わず、自然の法則に反するからです。しかし私たちはすべてを知っているわけではありません。「奇跡というのは、自然の法則に反している事柄ではなく、私たちの知っている限りの自然の法則に反しているに過ぎない」(アウグスチヌス)のです。
 
奇跡が起こるには理由があります。@奇跡はイエス様の人々への深い愛の発露であって(自然に対しての奇跡ですら)、ただ人を驚かせたり、奇跡のための奇跡はありません。Aイエス様への信頼と従順のあるところで行なわれ、それの無いところでは起こりません(6:1ー6)。Bもっとも大切なことは、奇跡は神様が神様として崇められるためのものであって、私の都合のためではないことです。ある者は病気が癒されて神様の栄光を現わし(ヨハネ11:1-4)、ある者は癒されなくても、それに耐える 力が与えられて神を賛美し、その栄光を現わします(2コリント 12:7-10)。
 
 生ける神様を信じ従うのですから、奇跡の無い信仰はありません。信仰は人生観や世界観ではないのです。奇跡の問題は、私が行なえるかどうか(強い願望や念力)ではありませんし、私に都合がよいかどうかでもありません。神様の愛の支配の中で神様の栄光のために必要かどうかなのです。
 

2019年11月3日 「恐れるな、信ぜよ」
 
聖書:マルコによる福音書 5章21節−43節   説教:
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
  会堂長ヤイロは、危篤な娘を気遣ってじりじりしていました。折角イエス様が娘のところに向かって下さっていたのに、出血の止まらない女のことで時間をとられたのです。そして「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と一番聞きたくない言葉を聞かされました。死は私たちから全てを奪います。人生の喜びも、一家の団欒も。人は死の前に無力なのです。
 「恐れることはない、ただ信じなさい」とヤイロに言い、家に着くと「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」を言われ、それを聞いた人々は娘の死を知っていましたのであざ笑いました。イエス様(聖書)にとっては死は死ではなく、甦るための眠りなのです。そして娘を「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」と言って起こしてくださいました。
 
この娘も、ナインの息子(ルカ7)も、ラザロも(ヨハネ11)やがて死にました。ただ死んだのではなく、キリストと結びついた死を死んだのです。イエス様は甦りによって死に風穴を開けてその先にある確かな生命を約束してくださいました。ヤイロの娘の出来事はその先取りです。娘と父を繋がれたのです。
 
 元松原教会山田京二牧師は「私たちが求めているのは死なないで生きることであるが(死んだら絶望)、福音が私たちに伝えるのは死んでも生きる(死を越えての望み)ことである」と言われます。
「国籍は天にあり」と言い、「身体の甦りを信ず」と告白します。それは葬式の常套語ではありません。私たちは死を越えての望みに生きています。死は永遠の別れでも、消滅でも、無に帰することでもないのです。イエス様が十字架の死と甦りによって私たちを確かな天につないで下さったのです。